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〈龍川駅爆発事故〉 本社記者第2回現地レポート

 【平壌発=李松鶴記者、写真=文光善記者】平安北道龍川郡住民らは、4月22日の爆発事故発生直後から朝鮮各地と国際的な支援に支えられながら苦痛を乗り越え、復旧事業に立ち上がっている。現在、軍人らとともに、各道、市の人民らで編成された「突撃隊」が復旧事業に全力をあげている。事故発生から2週間が経った8、9の両日、現地を再び取材した。

学校などを最優先に

 事故現場の龍川駅とその周辺では、復旧工事が急ピッチで行われていた。爆発によってできた深さ15〜20メートルの大きな穴は埋められ、臨時的ではあるがレールも敷かれていた。爆風により破壊された小学校と農業専門学校、住宅などはすべて取り払われた。

新義州市第1病院で治療を受ける子どもと母親

 龍川郡洪水被害対策委員会のチャン・ソングン委員長(48、郡人民委員会副委員長)は、「復旧事業で一番力を入れているのは、小学校の建設、そして被害が最も大きかった住宅密集地域の再建だ。小学校は元の位置ではなく、鉄道から離れた場所に敷地を選び、軍人らが建設に取り組んでいる。被害が比較的小さかった住宅に対しても検査を実施して、安全性が確認されなかった建物は取り壊し、新たに建設することにしている」と説明してくれた。

 同委員会は90年代に頻発した洪水災害に対処するため96年に設立された組織だ。国際的な支援事業と関連し、朝鮮側の窓口の役割を果たしてきた。以後も自然災害など、非常事態に対処する活動を行っている。

 新たに建設される龍川駅周辺の設計はすでにでき上がっている。被災住民の意見も取り入れて現在、拡大された設計図が作成されている。チャン委員長は製作中の設計図を広げながら、「倒壊した建物のほとんどは60〜70年代に建てられた平屋だ。われわれはここに2、3階立てのアパートを建設し、傷ついた被災民らが不自由なく生活できるようにしたい」。

 住居をなくした住民らは現在、被害の比較的小さかった地域住民の世帯に身を寄せ同居しながら復旧事業に励んでいる。

 チェ・ジョンシルさん(48)は、爆風で飛んできた鉄の破片によって負傷。今は完治し、毎日建設現場に足を運んで、復旧事業に参加している。住民らは、明け方4時から夜中の2時まで復旧事業に従事しているという。

 チェさんは、「全国の人びとと国際社会からたくさんの支援をいただき、力が沸いた。他人の家に同居し始めた当初は、不便も少しあったが、こういう時こそ助け合うのがわが民族の良き風習だ」と話した。

 一方、テントを張って生活しているハン・ミョンオクさん(70)は、「事故発生直後は動揺して不安があったのも事実だが、全国からふとんや食糧などをたくさん送ってくれたおかげで、今は落ちつきを取り戻した。復旧事業も進んでおり、われわれも少しでも役に立てればと働いている」。

 チャン委員長によると、支援物資は引き続き現地に送られてきているが、セメント、鋼材、木材といった建設資材が不足しているという。復旧については、今年の10月頃には基本的な作業を終えたいと語った。

完全治療に全力

平安北道人民病院のチョン・チャンミョン副院長

 8日現在、爆発事故の被害者1350人のうち、病院で治療を受けているのは652人だ。

 平安北道人民病院のチョン・チャンミョン副院長(59)は、病室を回りながら「現在最も必要なのは、脳打撲などの後遺症に対処できる薬品だ」と説明。さらに、「事故当時は本当に悲惨だった。ある子どもはガラス破片によって顔だけでも46カ所もの傷を負い縫った。事故から2週間が経って、傷跡がほとんどなくなった20人の子どもらが昨日退院した」と語った。

新義州市第1病院のクォン・ヒョンギル副院長

 院内を回ると、病室にはまだ多くの小学生が横たわっていた。重傷を負ったリ・ジャンヨン君(9)の母、リ・クムスクさん(40)は、「病院に運ばれた時はもう助からないと思った。でも医者の方々が誠心誠意を尽くしてくれたおかげで、こうして助かった」と、涙を流す。

 医薬品と設備が不足しているなかでも、医者と看護員らは昼夜を問わず治療に当たり、おかげで九死に一生を得た人たちも多い。

 負傷者らは、道人民病院と新義州市第1、2病院、南新義州病院など、新義州市内の多くの病院で治療を受けている。

 新義州市第1病院のクォン・ヒョンギル副院長(66)は、「当時はたくさんの負傷者が一度に搬送されてきて大変だった」と振り返りながら、現在はすべての負傷者の完全治療に全力を尽くしていると語った。

[朝鮮新報 2004.5.13]