〈平壌子ども食糧品工場〉 毎昼食時、市内の園児、小中学生に低価で豆乳を供給 |
【平壌発=姜イルク記者】平壌市内の小、中学校の冬休みは、それぞれ2月1日と14日に終わった。子どもたちの冬休みの終わりとともに、設備の点検などで稼動を中断していた平壌子ども食糧品工場の豆乳職場(平川区域)が稼動を再開した。同工場では市内の幼稚園、小中学校の昼食ごとに、豆乳を供給している。 生産費の大半を国家が負担 11歳の娘が中学校に通う40代前半の労働者に、昼食時子どもに供給される豆乳の代金がいくらか聞いてみたところ、知らないという。 一昨年7月1日、商品の価格および生活費調整措置が取られて以後、生活費の収支勘定に敏感になった市民だが、子どもを持つ大人の誰に聞いても、豆乳の代金をいくら払っているのか知らなかった。 実は、コップ一杯(200ミリリットル)3ウォン。リ・キョンソプ平壌子ども食糧品工場技師長(44)によると、国の将来を担っていく子どもたちに供給する豆乳の生産費は、3分の1以上を国家が負担している。それによって「ただ同然の価格」で供給されているので、市民はあまり負担を感じていないようだという。 同工場では豆乳のほかに、豆乳ヨーグルト、粉乳、離乳食品、栄養粉なども生産しているが、これらの生産費もすべて、国家が大半を負担している。 「7.1措置」以後も、教育、医療などの社会福祉部門では、「相応の価格」ではなく、以前と同様「ただ同然の価格」のまま据え置きにされている。 「苦難の行軍」時期も中断なく 同工場で生産される豆乳を味見してみた。ほどよく甘味があって、とてもおいしく飲みやすかった。 「生産機械一式は92年にフランスから輸入した。当時、世界食糧機械の展示会で1等の賞を受けたものだ。金正日総書記は、子どもたちに栄養価の高い豆乳を正常に供給するようにと指示し、一番良い機械を同工場に送ってくれた」(リ技師長)
以後、同工場では「苦難の行軍」と呼ばれる経済試練の時期にも、中断することなく生産を続け豆乳を供給してきた。 同工場は、もともとは野菜加工工場(71年設立)だった。平壌火力発電連合企業所のすぐ近くに位置していたので、正常稼動には有利な環境にあった。79年、金日成主席の指示で、食糧品工場に転換、子どもたちのために菓子、乳製品などを生産するようになった。そして市内の幼稚園、学校に粉乳から作る牛乳を毎日供給し、92年からは豆乳も供給し始めた。 リ技師長は、「今まで原料、電力、そして豆乳を各学校に配達する車のガソリンなど、工場の運営にあたって心配したことは何もない」という。原料は、最優先的に同工場に回され、費用も国家が大半を負担している。電気の配線も2重になって停電することがないという。 同工場には、外国人や海外同胞、国内各道から見学客が多数訪れる。しかし、生産される豆乳は、よほどの求めがないかぎり、味見はさせない。子どもらのために生産されたものだから、というのが理由で徹底管理されている。ちなみに記者は、例外的に「学生扱い」してもらい味見させてもらった。 [朝鮮新報 2004.2.21] |