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〈民族教育に捧げた半生-8-〉 祖国の愛

 55年5月25日、総聯が結成された。

 総聯結成後も、子弟に対する民主主義的民族教育は、切実な問題として提起された。日本政府のたび重なる破壊策動と物質的、財政困難によって多くの紆余曲折を経なければならなかった。

 そんなとき、在日朝鮮同胞は、思いもかけず祖国からの慈愛に満ちた教育援助費と奨学金を受け取るのである。

 1957年4月、祖国解放戦争で破壊された国の復旧に全力をあげねばならなかった時期にもかかわらず、金日成主席は「工場を一つ、二つ作れなくても、日本にいる朝鮮の子供たちのために教育費を送らなければいけない」と莫大な金額の教育援助費と奨学金を送って下さった。

 このほか、数々の配慮によって、民族教育発展の道を歩むことができたのである。

 祖国からの教育援助費の配慮があった当時、東京朝鮮第3初級学校の父母たちは「祖国復旧事業に手助けもしないのに教育援助費をいただくとは」と言いながら、学校運営の自立体制を確立しようと「育英会」をつくって、基金募集運動を広げて、大きな成果を納めたことがあった。

 私は、東京朝鮮第3初級学校で、11年間教壇に立った。その間、総聯中央の教科書編纂に携わったり、臨時教員養成所、朝鮮大学校附属教員養成所の国語担当教員もした。また、夏期教員講習会、教育研究集会などで国語講師を務めた。

 1955年、教職員同盟東京東部委員長兼中央副委員長、1958年4月から総聯中央教育部指導員(視学兼)、教職員同盟中央委員長を兼務した。1961年4月から大阪朝鮮高級学校長に任命され、単身赴任で、2年間務める。

 1963年4月、朝鮮大学校師範教育課長を経て、総聯中央教育部(教科書担当)副部長に就任した。

 1964年5月、朝鮮新報社編集局に異動。7年間に初期編成校正を経て論説部長として活動した。

 教育会中央常任理事会副会長、朝鮮新報社の7年を除くと、43年間民族教育事業に携わった。

 教え子の中には、卒業して帰国し、大学教授や新聞記者、医者、アナウンサーになった者もいれば、指揮者、作曲家、科学者、教育学者もいる。

 日本でも、教育者、新聞記者、芸術家もいれば、総聯活動家として、または商工人になって各地で活躍している。私は、このことを耳にするときほど、楽しく、幸せを感じることはない。

 私の一人息子は、朝鮮大学校1年生のときに帰国し、今は、映画音楽の作曲家、指揮者として活躍している。私が作詞したのを息子が作曲して、朝鮮芸術映画の主題歌にもなったことがある。

 余生幾ばくもない今になって顧みるに、苦しかったことの多かったこと。子供たちに新しい服を買ってやることもできず、古着をもらってきてはつぎはぎをして着せたり、読み古した本を与えたこと、年の暮れになっても米代が払えず困っていたとき、友人が1万円をくれたことなど、昨日のように思い出す。

 それでも朝鮮の言葉や文字を子供たちに教えることを自らの責任であると自覚し、ただ自分が信じる道を組織とともに歩んできたことを私は誇りに思っている。

 在日朝鮮人運動の中でも、民族教育は、重要な位置を占めている。民族教育なくして、民族性は守れないのではないか。民族教育を守れなかったら、今頃、在日朝鮮人社会はどうなっているだろう。

 民族教育の場である朝鮮学校があるからこそ、日本に住むすべての朝鮮の子供たちは、民族の自覚と誇りを持って立派に育つことができるのである。

 私は長年、民族教育に携わっていた一人として、それを時代の要求に応じて、さらに発展させねばならないと痛切に思うのである。(鄭求一、在日本朝鮮人教育会中央常任理事会顧問)

[朝鮮新報 2004.4.26]