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〈民族教育に捧げた半生-7-〉 4.24教育闘争

 1948年1月頃だったと思うが、当時占領していた米軍総司令部(GHQ)は、日本政府をそそのかし、東京、大阪、神戸地方の朝鮮学校に襲いかかった。

 同胞たちは、即座に朝鮮人教育対策委員会を作り、教育弾圧に反対する闘争を繰り広げた。中でも、とくに学校の多かった阪神での闘いは熾烈であった。4.24教育闘争(48年)である。

 4月15日、東京の京橋公会堂では、朝鮮人教育不法弾圧反対学父兄大会が開かれた。そのとき、詩人許南麟氏が朗読した「これが俺たちの学校だ」と題する自作の詩が忘れられない。たとえ校舎はみすぼらしくとも、異郷で「幼い朝鮮の同志」である子供たちを朝鮮人として育てる学校のすばらしさを歌ったこの詩、またその時、詩人姜舜氏は、自作の散文詩「闘いの序曲」を朗読した。

 たとえ物置き小屋のようでも、われらが懐を全部はたいて作った教室、昼間でも電燈をつけたが、歴然とした教室、教室であった。大理石の教室よりも熱気が漂うのであったと…この両氏の詩に、青年教師だった私も、深い感銘を受けたものだった。

 在日同胞の不法弾圧反対闘争に、慌てふためいた米帝国主義者は、阪神一帯に「非常事態」を宣言し、GHQを直接出動させ、朝鮮人を無差別に大量(1万2001人)検挙、約400人が、軍事裁判にかけられた。米第8軍司令官のアイケルバーガーの指示によるものであった。そして、決起した同胞らの抗議闘争に驚いた日本の警察が実弾を放ち、当時16歳だった金太一君を殺害するという蛮行まではたらいたのである。

 1948年4月24日、米軍政庁の教育長デュッペルの命令を受けて東京都庁は、東京の朝鮮学校に閉鎖命令を出した。これを拒否したとして、管理組合長の尹徳昆先生をはじめ、学校の管理会長、校長を逮捕した。だが、警視庁の中でもみな勇敢に闘った。

 1949年4月21日、デュッペルが東京第3初等学校に押し掛け、靴も脱がずに土足で教室に踏み込み、校庭に国旗を掲げることを許さず、教職員室に掲げてあった国旗と金日成首相の肖像画を指さして、怒気を含んだ顔をして睨みながら、これではわれらと立場が違うと怒鳴るのであった。

 それでも同胞たちは、米帝国主義の弾圧にもめげず、米国と直接対峙し闘い続け、民主主義的民族教育の権利を守り通した。

 その結果、教育弾圧の当事者であった米第8軍司令官アイケルバーガーは「愛を蹴る馬鹿」と罵られながら、本国へ送還された。

 1949年9月8日、米帝と日本政府当局は、「団体など規制令」を適用し、朝聯と民青を強制解散し、財産を没収した。日本当局は「学校は、朝聯の財産であっても接収しない」と言及したが、それは学校を閉鎖することを考えたからであった。

 あにはからんや!

 1949年10月19日、日本政府は「朝鮮学校閉鎖令」を出した。

 それによって、他の朝鮮学校と同じく、東京第3初等学校も12月20日、都立学校として発足した。東京都立第3小学校に看板が変わった。校長や担任教師が日朝で2人ずつ、卒業証書も2通りというありさまだった。

 都立の初期、私たちは、不当な制度だといって反対もし、ビラを刷るなどして闘った。子供たちも「日本人先生嫌だ」といって、日本人教師による授業を拒否したこともあった。日本の教師たちも矛盾を感じていた。また、なぜ日本の公僕を使って、在日朝鮮人の教育をしなければならないのかという意見も政府要員の中にあったのも事実である。

 在日本朝鮮人総連合会(総連)結成準備過程で、都立存続か、私立移管かの論争が繰り広げられた。東京中高等学校の会議室で、私立移管を力説していた李心侮≠ェ印象深かった。

 結局、私立移管、自主的な学校運営の正しい方向に決まった。そうして、54年3月「都立制度」は廃止され、私立移管の自主的運営に変わり、民族教育における主体性を取り戻すことができたのである。(鄭求一、在日本朝鮮人教育会中央常任理事会顧問)

[朝鮮新報 2004.4.17]