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〈民族教育に捧げた半生-6-〉 手作りの学校

 1945年、朝聯結成当時、私は在日朝鮮民主青年同盟(民青)豊島支部で活動し、その後の47年から教員として教壇に立つようになった。46年まで男女2人の教員が教えていたが、男性は朝聯中央に、女性は演劇活動に転職したので、47年から私一人で3部制(1・2年、3・4年、5・6年)の複式で50余人を教えた。同年の12月17日、豊島初等学院は、板橋初等学院と合併し、東京第3朝聯初等学校となる。私が児童48名を連れて板橋学院に行く。その時オルガン1台を運ぶ。全生徒131人、教員4人となる。現在の東京朝鮮第3初級学校の前身である。

 学校とはいっても、今のような校舎はなく、はじめは個人の家の畳部屋や倉庫を教室代わりにしていた。しかし、学生が増えるにつれ、板橋区板橋4丁目にあった大きなアパートを買って、学校に改造し、教室として使い、アパート前の麦畑を借りて運動場にした。

 解放直後、同胞たちの生活は、非常に苦しかった。それでも一軒一軒訪ね歩き、これからは朝鮮人は団結しなければならない、子供たちに民族の自覚と誇りを持たせるための教育をしなければならないと説くと、ほとんどの同胞が子供たちをうちの学校へ入学させたり、屑拾いや日雇い労働、闇市、内職などをして集めた金を、学校の運営へと差し出した。はじめの頃、月給ももらえずに教えていた私たち教師を家に呼んでは、心からもてなしてくれた。

 子供たちもまた、寒い冬に教室の窓が割れていて、寒いはずなのに「寒い」とも言わず、満足に食べることができなくっても我慢していた。自分の国の言葉や、文字、歴史や地理を学ぶことが、楽しくて仕方がなかったようだった。同胞の愛や、無邪気な子供たちの笑顔に励まされ、私たち教師は、「手作り」の教育を続けることができたのであった。

 私は、教科書を教えるのではなく、教科書で教えるという考えだったが、4年生から卒業まで、3年間担任した時には、よく子供たちに童話の本を読んでやり、時には、自作の童話を聞かせてやった。工作の時間にはあまり金のかからない「ウットテープ」を使い、平面から立体を構成する、いろいろな籠の作り方を教えたりした。その作品が、東京都内の生徒工作展示会で入賞したときは、子供たちと一緒に喜んだものだ。

 その頃は、運動会の飾り付けや、国旗や万国旗もみんな手作りだった。運動会の当日、子供たちは裸足だったが、みんな明るく元気に跳び回っていた。

 しかし解放後に、朝鮮半島の南半部を占領した米帝国主義は、南朝鮮を永久に植民地にし、侵略の軍事基地にしようと画策しながら、日本で米国の南朝鮮植民地化、奴隷化政策に反対する在日朝鮮人の愛国闘争と民主主義的民族教育を弾圧、抹殺しようと、その機会を虎視眈々と狙っていたのである。当時私は、次のような詩を書いたことがある。

 子供たちよ!

 子供たちよ!
 今もこよなき喜びの心で
 お前たちをながめている
 だが、子供たちよ!
 お前たちは、我が同胞の総てが
 笞に苦しみつつ、快々と黙して服さねばならなかった
 この屈辱の歴史を知らないだろう
 そこには自由はない!
 一点の理想をも持つことのできない
 暗黒の連続だったではないか!

 子供たちよ!
 お前たちは子供だ
 ナンの憂いもなく疑心もない
 喜々として遊び戯れる子供たちだ
 しかし、わが民族が血をもってなめた
 苛酷な歴史、虐げられた36年間の
 植民地の屈辱の歴史を知るがよい!
 父母、兄弟、姉妹が永い年月をもだえ苦しんだ
 この事実を知るがよい
 この事実を忘れてはならない

 子供たちよ! そして
 われわれが心の中にしまっている
 祖国繁栄と民族の幸福の旗を
 晴れて空高くかかげることの出来る
 この栄光の日を、心に銘じなくてはならない!
 そして民族の幸福の旗の下にこそ
 われわれの自由と独立、平和があることを…

 さあ子供たちよ!
 今、騒音と共にひしひしと寒い
 みんな火の燃える傍らにかたまろう
 そして、あすの限りない太陽の下で
 自由にうたい、おどる青空のために
 語りあおう
 さあ子供たちよ!(鄭求一、在日本朝鮮人教育会中央常任理事会顧問)

[朝鮮新報 2004.4.10]