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〈民族教育に捧げた半生-5-〉 国語講習所

 祖国解放後、東京都豊島区に住んでいた同胞たちは、高松町の故人(許宗一)の家の下を借りて朝聯豊島支部の事務所にし、もやし工場だった同じ屋根の倉庫を借りて「豊島朝鮮初等学院」の看板を立てて教室を作った。

 ほぼ時を同じくして、板橋でも大谷口にやはり故人(崔光碩氏)の家と倉庫を借りて、板橋朝鮮学院を開院した。それが1945年12月のことだから、東京都内で開院した朝鮮学院の中では早いもののひとつだったと思う。

 平たい板で横長く作ったのが机代わり、1枚の横長い椅子に子供たちが座って朝鮮語や歴史、地理を習った。

 このように、在日同胞は、日本の各地に「国語講習所」「朝鮮語学院」などの、寺子屋のような小さな学校、学院を建てた。これがまさに、在日朝鮮人子弟への民族教育権利確保の第一歩であったのである。

 在日朝鮮人の民族教育を回顧するたびに、私の脳裏に浮かぶのは、故尹徳昆先生の面影である。尹先生は、1946年から東京で始まった中等教育実施のための活動において、もっとも大きな働きをした功労者の一人と言えるだろう。

 東京都板橋区には、初等教育の場は出来たが、中等教育の場がなかった。そこで、朝聯東京板橋支部の委員長として、精力的に活動していた尹徳昆先生は、まず学校として使用できる施設を確保するため、数人の青年たちを連れて板橋区役所を訪れた。そして牛田区長に、日本帝国主義の36年間におよぶ植民地支配について述べながら、それに伴う強制連行の事実や、朝鮮人に対する愚民化政策など、日本政府の極悪非道な対応を暴露した。その上で、解放された朝鮮の子供たちのために、民族教育を施す場を提供するようにと、強く要請したのである。

 その後も繰り返し区役所に足を運んだ。その結果、区民の斡旋もあって、1946年9月20日、尹先生は、建設局土地整理土地係(荒井)が朝聯板橋支部委員長宛に送った公文書を受け取った。そこには、板橋造幣廠敷地内の建物を、学校として使用してもよいとの内容が記されていた。これは粘り強い要請による成果であった。

 こうして、同年10月5日、生徒350人、教員11人の朝鮮中学校が創立された。この学校の運営の母体である管理組合長は、尹徳昆先生であった。

 東京朝鮮中学設立期成会が11月4日、東京都長官(安井誠一郎)に提出した申請書は、11月8日に認定された。

 東京朝鮮中学校の創立は、愛する子弟たちに、我らの民族教育をさせたがっていた在日朝鮮同胞の宿望の実現であったし、中等教育の始まりは、やがて民族教育を強化発展させる上で、歴史的な意義があった。

 創立された東京朝鮮中学校は、当時校地面積は6700坪、建物は全部で1290坪あった。

 建物の中は薄暗く、窓には鉄格子がはめ込まれていた。また、所々に防火用水槽があるほか、雑草が生い茂った雑木林のような小高い丘もあった。教室に使っていたあるところには、水溜まりの地下室もあった。

 だが、当時教員と学生はもちろんのこと、父母たちも学校の環境整備を自分のことのように思って、汗を流しながら奉仕した。小高い丘を平らにして、運動場の敷地を広めていった。学生たちは、毎日のように放課後と休み時間には、シャベルや鍬をもって運動場整備労働に参加した。学びながら働き、働きながら学ぶ毎日だったといえる。

 当初は見る影もなかった建物は、同胞の熱意によって、少しずつ学校としての風貌を整え、みんなに愛される「私たちの学校」となっていった。

 在日朝鮮人中等教育の始発点でもある東京朝鮮中高級学校は、今年、創立58周年を迎えるが、この学校は尹徳昆先生の功労なしに考えられない。活動家を愛し民族教育事業に情熱を燃やした尹先生は、56歳の若さで惜しくも他界された。(鄭求一、在日本朝鮮人中央教育会顧問)

[朝鮮新報 2004.4.2]