〈民族教育に捧げた半生-4-〉 日本敗戦 |
戦火が一段と激しくなるにつれて、田舎へ疎開する人も多くなった。私は疎開する所がない。食べ物はなく、道端で売っていた薩摩芋か、おでんのつみれを2、3枚買って空腹をしのいだりした。配給はわずかな玄米と大豆の油粕であった。玄米は瓶に入れて棒でついて白米にし、油粕を入れてご飯を炊くが、数日でなくなる。 仕方なく朝早くパン屋の前に行っては長蛇の列に加わり、雑炊の店を探して、毎日並ぶしかなかった。アパートでは、友人たちと共同炊事もした。焼け跡から拾ってきた鉄かぶとを、ハンマーで叩いて鍋を作り、空石油缶に焚き口をあけて鍋をのせて薩摩芋を蒸して食べたりした。 戦火の激しいとき、私も豊島区で何度も空襲にあった。あるときの昼間、書生友だちと目白通りを歩いていたとき、急に低空で飛んできた灰色のアメリカの戦闘機、グラマンの機銃掃射を受けたが、夢中で道端へ伏せて難を逃れた。それを思い出すと今でもぞっとする。 私の通っていた学校では、詰め襟や教練服の上着に名前と「米英撃滅」と書いた布切れをつけなければ校門をくぐることができなかった。私はそれが嫌だったが、それよりも軍事教練がもっと嫌だった。 ある日の教練の時間に、銃を肩に担いで整列せず、銃をズルズル引きずりながら運動場を歩いていたことがあった。それを見た教練担当配属将校に呼び出されてビンタをもらって、鼻血を出して倒れた。また、富士山麓での実弾射撃実地練習にも参加しなかった。 学校では、勇気のある教師が一人いて「電波探知機時代に竹槍ではダメだよ」と言いながら、「日本は負けるよ」とはっきり言った。 1945年3月10日と、4月、5月の東京の空襲で、東京のいたる所が焼け野原になった。日増しに濃くなる日本の敗色は誰の目にも明らかになりつつあった。本土決戦や、1億玉砕といっていたが、1945年8月、アメリカは、広島および長崎に原子爆弾を投下した。 私が日本へ来るときも暑い8月だったが、1945年8月15日は、酷く暑い日であった。そのとき、アパートにいた友人たちと一緒にラジオで「玉音放送」を聞いた。アパートの日本の人たちは「日本は負けた」と叫びながら、泣きじゃくるのであった。私たちは、部屋で手に手を握り合って喜んだ。もう朝鮮は日帝の植民地統治下から解放され、自由になると語り合った。当時の友人たちの顔が思い出される。 日にちがたつにつれて、私も帰国しようかと考えていたのに、ある日、同胞の先輩たちがアパートに訪ねてきた。朝鮮人団体をつくるのに協力してくれとのことと、国語講習会に来て、同胞や青年たちに国語を教えてくれないかとのことだった。そのときの人が、今も健在でいらっしゃる魚塘氏と故人になった朴成発氏であった。 当時の青年たちは、在日同胞の工場や商売を手伝い、同胞らは私たちに飯を食わせてくれた。 やがて、1945年10月15日、在日本朝鮮人聯盟(朝聯)が結成された。朝聯結成大会での宣言は、次のように謳ってあった。 「人類歴史上、類例のない第2次世界大戦もポツダム宣言により終結され、我が朝鮮もついに自由と独立の栄光の日が約束された。 祖国が解放されて、帰国運動が広がる中で、子供たちに母国語を教え、一日も早く父母と故郷へ帰るようにするのが朝聯組織や青年たちの急を要する任務であった。在日朝鮮人の帰国問題に消極的であり、行政の手にあまっていた日本政府に代わって帰国事業を朝聯が推進した。 解放当時、240万人に達した在日朝鮮同胞(うち98%が南朝鮮出身者)の大多数が故郷に帰ったが、南に帰っても住めないという情報も伝わり、さらにGHQが持ち帰れる通貨を千円以下にしたため、帰国後の生活に不安を覚えて、故郷に帰るのを一時見合わせた同胞が60万人もいた。(鄭求一、在日本朝鮮人中央教育会顧問) [朝鮮新報 2004.3.27] |