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〈民族教育に捧げた半生-3-〉 学生時代

 学校へ行ったら、東中野から来ている台湾人の学友が、私が病気したことを知ってか、栄養を摂るようにと新聞紙に包んだ大きなものを私にくれた。私は、それを開いて見もしないで職場の日本人の奥さんに渡した。奥さんは、それを開いたとたん、「きゃっ!」と仰天。毛のついた生の豚足3本があったからだ。工場主の呉さんは、笑いながらそれをもらって工場のガスの火で毛を燃やし、カミソリできれいに毛あとを剃っては丁寧に洗って大きな鍋に入れて、長時間煮て料理して美味しく食べた。今はデパートに豚足や牛や豚の内臓が並んで久しいが、当時はゲテモノ食いは朝鮮人か台湾人だと、日本人から軽蔑された。豚や牛の内臓は「放るもの(大阪弁)」が訛って、ホルモンになったことを思い起こすのである。

 日本人の中には、いい人もいたが、多くの日本人は差別と偏見を持って朝鮮人を馬鹿にした。差別と辱めを受けるたびに、ますます日本人への憎悪が増した。そこで私は、自分が通う学校の同胞学生との連帯を深め、親睦をと思って学生名簿を作った。当時は、日本帝国主義の「創氏改名」の強制によって、朝鮮名を奪われ、「金村」、「金原」、「西原」…などの日本名を使ったが、全校生の中から同胞学生を探し出して名簿を作り、互いに連絡を取り合い、励まし、励まされながら勉学に精を出した。

 ところが、夏休みで故郷(咸興)へ一時帰る韓(西原)君が下関の特高刑事に捕まり、数日間警察署に拘留された事件があった。学生名簿が問題になったのであった。韓君の手紙によって学生名簿は、燃やすはめになったのであった。

 私は、竹翁荘のアパートから近所の大きな興楽園というアパートに移った。このアパートには、同胞学生が数人いたし、同胞世帯3世帯もいた。

 当時は戦火も次第に激しくなり、徴兵や徴用で引っ張られる学生も多かった。

 私の元にも故郷から「志願兵」を勧める通知が届き、軍隊に入るための適格検査だったか、予備検査かは定かではないが、身体検査を受けさせられたことがあった。軍隊に引っ張られるのが嫌で、検査の当日の朝、私は検査にパスしないよう両眼が真っ赤に腫れ上がるまで涙を流しながら、唐辛子の粉をすりこんだ。検査所で軍医は、トラホームと言ったことを聞いた。

 その後は徴用が心配だったが、町工場であったか、軍需品を製作する工場で働くというので、徴用も免れた。だが、多くの朝鮮人学生が志願兵や学徒出陣、学徒動員された。

 そんなある日、私に宇都宮の陸軍病院から「身請け人不在」の患者がいるから、来て欲しいとの通知が来た。急いで駆けつけると、寧越邑内の平壌冷麺店の息子(朴君)で、私とは親友だった。強制志願兵に引っ張られ、中国戦線に上等兵として使われたのだ。彼は戦地で負傷して、病院に送られてきたとのことだった。病院では、彼の身元引受人になって連れて帰って故郷の方まで同行してほしいとのことだった。

 私は、そのように約束をし、彼を連れてアパートに帰った。そして3日間一緒にいた。彼の言う戦地での話は興味深かった。中国戦線で上等兵として服務していたとき、中国の八路軍の進撃ラッパを聞くと恐いやら、淋しいやらで、居たたまらなかったそうである。彼は、強制的に志願兵になったけれど、それに応じたことを反省もし、敵地にいるとき、何回も脱走を考えたが、実行できなかったそうである。

 戦闘中、敵の弾丸を頭に受けて気絶したけれど、その弾丸が妙に鉄かぶとの中をぐるぐる回って飛び出したと言う。生命は助かったが病名が「癲癇」になっていたという。彼は病院にいるとき、仮病を使ったとも言ったが、どのようにして「癲癇」の仮病を使ったかは知らなかった。3日後、彼は故郷の寧越へ一人で帰るというから、東京駅まで行って見送った。彼から一度手紙があったが、消息が途絶えてしまった。(鄭求一、在日本朝鮮人中央教育会顧問)

[朝鮮新報 2004.3.22]