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〈民族教育に捧げた半生-2-〉 渡日

 専売局出張所にいても、試験を受けて雇員になる道はあったが、その前に、強制志願兵に引っ張られるのがおちであることを悟った私は、18歳の時、勉学のため一念発起して渡日を決意した。

 1940年8月の暑い日、私は原州に戻って曾祖父と祖父母に渡日の旨を告げた。祖母は即座に「なにも倭敵地に行くことはない。むしろ満州(今の中国東北地方)へ行ったら」と、止めた。私の意志の強いことを知った祖母は、父母とよく相談しろと言った。

 寧越にいた父母は「軍隊に引っ張られるよりは…」と、しぶしぶ納得し、詰め襟の服と革靴、腕時計を持たせてくれた。

 私は、父母と友人に見送られながら、釜山行きの汽車に乗った。釜山で関釜連絡船に乗り、畳部屋で揺られながら激しい船酔いに悩まされ、下関港に着いて異国の地に一人降り立ったとたん交番に呼び出された。

 特高刑事は、何のために日本に来たのか、誰の紹介か、身元保護は誰なのか聞いたが、その威圧的な態度と口調、そのときの悔しさや、胸を掻きむしられる思いは、一生忘れることができない。

 私は、寧越の専売局出張所で知り合った人の紹介と、その人が役員をしていた、東京の王子区(今は北区)袋町にあった、東京防混加工株式会社(煙草を包むパラフィン紙加工)の工場で働きながら夜学部の予備学校へ通った。

 会社側もそれを許してくれた。翌年の3月、私は東京の青山学院中等部(夜間)に合格したが、会社側が身元保証人になってくれないので、入学できなかった。

 工場側は、当然のように夜学に通うのを反対し、連日残業をさせて労働者を酷使した。当時、工場で夜学に通うものは、私一人だった。私は、会社側に不満を感じ、その会社を飛び出し、朝鮮同胞が経営する小さな軍需工場へ移った。

 今までは、会社の寮に入っていたが、今度はアパートを借りなければならない。その際「朝鮮人」という理由で、入室を拒絶されるなど、数々の恥辱を味わった。

 工場の斡旋で、豊島区の長崎というところにあった、竹翁荘というアパートの四畳半の部屋に入ることができた。

 そこで私は、豊島区にある豊島商業学校夜学部の4年制を受験して合格し、通うようになった。

 故郷から時々送られてくる便りや、分厚く平たい朝鮮飴、米や糯米を焦がして粉にしたはったい粉の入った包みが、なによりの楽しみだった。

 飴は金づちで割って少しずつアパートの親切な日本の方にあげたりした。「胡麻入りの朝鮮飴はおいしい」といってくれる人がいてうれしかった。

 アパートには、10世帯の人が住んでいたが、房総半島に実家(農家)がある65歳の大貫さんと、紙芝居の画描きの中山さん、牛乳配達の土居さんなどは、非常に理解のあるよい人たちだった。

 私は、一時「急性気管支炎」で苦しんだことがあった。40度の熱が一週間以上つづいたので、アパートの人々は、伝染病の憂いがあるとのことで、豊島病院に隔離入院させるといったそうである。それを聞いた担当医がアパートに駆けつけてきて「気管支炎熱であるのに何をしようとするのだ!」と怒ったので、私は隔離されなかった。

 当時は戦争中だったので、酷い食糧難なのに、病気で寝ている私に、毎日土居さんが牛乳を、大貫さんが米をくれたり、ご飯をくれたりした。ありがたかった。私の病気は、冬なのに高熱で汗疹が出る始末だった。1カ月あまりで病気は治った。

 画描きの中山さんは、当時進歩的な人であり、左翼思想の持ち主だったので、いろいろと教わった。特に彼は天皇制の矛盾について、日帝の侵略戦争に対し熱弁をふるうのであった。夜学生の私を、何時も同情的でいろいろと面倒を見てくれたことを今でも思い出す。(鄭求一、在日本朝鮮人中央教育会顧問)

[朝鮮新報 2004.3.13]