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〈民族教育に捧げた半生-1-〉 亡国の民

 私の故郷は、江原道の原州邑(現在の原州市)である。

 原州は、朝鮮半島の中心にあって、四方が山に囲まれ、原州を象徴する雄大な雉岳山(1288メートル)の山並みが屏風のように東方から南へと連なっている。

 この山の名は、もとは「赤岳山」だったそうである(秋の山は、紅葉して燃えるようであったので赤岳山と名付けた)。ところがある伝説、つまり弓術の名人が山奥で大蛇にとぐろ巻にされ、死にかかっている雉を助けたが、その後、死の窮地であえいでいたその名人を今度は雉が救い出すという報恩の由来から「赤」を「雉」に置き換えたそうである。

 雉岳山の白い雪も溶け始め、山々にかすみが立てばそう、うららかな春である。春の日はうらら、野山はかすみて…唄でも唄いたくなるような故郷の山や野。あんず、もも、れんぎょうの花が咲き乱れ、小高い丘の芝原には、すみれ、たんぽぽ、翕草の花が沢山咲くのであった。

 小川のせせらぎ、遠くの山で鳴く、郭公、ひばりの囀り。それは、春を告げるかのように聞こえてくる。南山公園に登って東を眺めれば、遠くに流れる鳳川や、人家からにぎやかに聞こえる砧をうつ音、まったくのどかな情景であった。

 私の家は農家だったが、いわゆる宗家だったので、山や畑を相当所有していた。父は畑仕事のかたわら、江原道の寧越の方で郵便配達をしたり、寧越火力発電所の工員としても働いていた。

 農繁期には幼かった私も、祖父母の農作業や蚕蔟造り、叺折も手伝った。

 春になると、村の子供や、若い娘たちが野原や山のふもと、土手や田畑の畔などにむらがって草を摘み、ひる顔の根を掘り出す。それは、一見のどかな光景ではあったが、日本帝国主義の植民地下にあった、多くの朝鮮同胞にとって、草や根は貴重な食糧だったのだ。主食のかわりに葛の根を食べ、みんなが遠い雉岳山の方へ行っては、わらびやぜんまい、たらのき(葱木)の芽、はりぎりの茎、おたからこ、つる人参など、いろんな山菜をとってきては、それを朝市で売り、または穀物と取り替える。家族の人数に比べると、極端に量の少ないひる顔の根を蒸して全員で分け合って食べたりした。

 私の幼い頃、曾祖母は亡くなったが、曾祖父が家におられた。曾祖父はよく凧を作ってくれたり、秋には栗や、なつめを取ってくれたりかわいがってくれた。曾祖父は、漢学者で近所の子供たちを集めて、千字文を教えていた。私は、甘えん坊だったので、みんなと一緒に習うとき、こっそり抜け出したため曾祖父にふくらはぎを打たれたことがある。今でも懐かしい思い出のひとつである。

 私は、原州公立普通学校に入学したが、普通学校、私立学校の就学率が当時、わずか16%だったことを思うと、祖父母や父母がよく私を学校へ入れてくれたものだと思うのである。

 原州公立普通学校の月謝は、当時50銭だった。それでも、満足に食べることすらできなかった私の家では、その月の月謝が払えず、学校から追い返されたこともたびたびあった。そんなある日、私は庭の大きな木に登って泣いて駄々をこねたこともあった。祖父が、大豆と小豆を売ってようやく月謝の金を工面してくれたことを覚えている。

 当時学校には、朝・日両教師がいて、校長は日本人(板倉)だった。「宮城搖拝」の強要と「皇国臣民の誓い」や「教育勅語」も暗唱させられた。これは「皇民化政策」の一環であった。「国語」とは日本語を指し、週に10〜12時間なのに対し、朝鮮語および漢文は、週3〜4時間しかなかった。それに日本語常用を強制させられた。また、修身科目では、天皇制イデオロギーを押しつけられた。

 また村のあちこちでは、朝鮮人をめちゃくちゃに殴ったり、白いチョゴリに墨汁をまき散らす日本人巡査の姿を何度も目撃した。そこで私と友達は、日本の子どもとは決して遊ばなかった。幼いなりに他人の国へ来て、わがもの顔をして歩いている日本人が憎かったことを憶えている。街のあちこちに、日本人が経営する「武見商店」などがあったが、極力行くことを避けたりもした。それが「朝鮮に来て朝鮮人を苦しめている日本人」への、ささやかな抵抗だったかなと思うのである。

 原州公立普通学校を卒業して、私は寧越の親せきの家に身を寄せながら、専売局寧越出張所で働いた。専売局出張所では、@煙草の種を植えつけた時の植えつけ検査A育って葉が大きくなった時の数量調査B秋の葉煙草の収納事業が主であった。取締部では、農家が葉煙草を収納しないで、少しでも持っていたら摘発して罰金を取る仕事であった。当時罰科金は書留配達料18銭を含み5円18銭だったと思う。私は当時、給仕でお茶汲みを最初やったが、女性の給仕が入ってきたので、主に庶務の仕事や、文書交付など、雑多な用務をさせられた。

 当時私は、祖国を奪われ身の拠り所のない民族の悲哀を感じていた。(鄭求一、在日本朝鮮人中央教育会顧問)

[朝鮮新報 2004.3.11]