〈新潟県中越地震〉 被災同胞とのふれあいの中でC |
日朝友好 行事中止、物資を小国町へ−ミレフェスティバル実行委
地震翌日の10月24日午前7時。新潟朝鮮初中級学校には日朝友好「ミレフェスティバル」実行委員会のメンバーらが集まり、この日の行事を中止するか、そのまま行うかを話し合っていた。地震による被害状況が徐々に明らかになるにつれ、メンバーの表情には焦りの色が見え隠れしていた。とにかく時間がない。素早い決断が求められた。 「こんな状況で、イベントを開催するわけにはいかない。在日同胞、日本人被災者に食料を届けて少しでも力になろう」 メンバーらの一致した意見だった。同実行委員会は支援物資を届けることを決め、すぐさま車で小国町役場に向かった。 その日、役場に届いていた食料はバナナだけ。焼肉やチヂミ、焼きそばなど700食分の食料を見て、役場の人たちは「本当にありがとう…」と言葉を詰まらせた。 「本当に苦渋の決断だった」と話すのは、ミレフェスティバル事務局長で新潟初中教員の李壮漢さん(32)。無理もない。同行事は同校で年間を通しての最大のイベント。財政が厳しいウリハッキョにとって開催しないことには採算がとれない。 「しかし、それより辛かったのが、イベントの狙いでもある『日朝友好』のきっかけを失うことだった。これだけの規模で行う日朝イベントは県内でほかにはない…」(李さん) 朝・日首脳会談を通じて明らかになった拉致問題に、行事を中止せざるを得なかった2002年。「拉致」「万景峰92」号を合言葉にエスカレートする県民感情。新潟の同胞社会にも当然、暗い影を落としていた。 それを一気に振り払ったのが、1年後のミレフェスティバルだった。約1200人が集まり、これまで以上にない大盛況だった。近所の人々も今年のイベントを楽しみに待っていた。 その中心的役割を担ってきたのが「日朝ネット」。若い世代の在日同胞と日本人らで構成されている。今年の舞台設置や会場作りのため、20人近い日本人らが学校を訪れた。役場へ食料を届けに向かったのも「日朝ネット」の青年たちが主だ。 ミレフェスティバル青年実行委・日本側代表で、新潟県高等学校教職員組合副委員長の松本英也さん(37)はこう語る。 「確かに行事中止はとても痛い。日朝関係をよくしたい一心で準備してきたから。でも、小国町で避難する人々のほころんだ顔を見て、判断が間違ってなかったことを確信した」 李教員は、「日朝ネットの日本人メンバーは、朝鮮人差別の問題を日本人の問題としてとらえ、つねに同じ目線で見てくれている。今後も絆を深めていきたい。今回の決断と行動は、間違いなく『日朝友好』への一歩になったはず。現地の人々が少しでもそれを感じ取ってくれれば」と微笑んだ。(金明c記者、おわり) [朝鮮新報 2004.11.27] |