〈新潟県中越地震〉 被災同胞とのふれあいの中でA |
小千谷市 パチンコ店営む朴太鉉さん−半壊乗り越え店もようやく再開 「とにかくケガもなく、みんなが生きててよかった」 小千谷市内でパチンコ店を営む朴太さん(40)は、半壊の家を眺めながら安堵の表情を浮かべた。 10月23日の新潟県中越地震で被害を受け、店は営業停止。店内はガラスの破片や物が床に散らばり、天井や壁もはがれて無残な姿をさらけだしていた。住居も2階のタンスが倒れ物が散乱、住める状態ではなかった。 「約30秒の地震が10分に感じるほどすごい揺れで、本当に怖かった。とにかく娘を守るのに必死だった」。地震当時のようすを朴さんはこう語った。 朴さんら家族は、駐車場にある倉庫で生活を始めた。地震の翌日に記者らが現場を訪れた時には、パン1個、ソーセージ2本の配給しかなく、どんな生活になるのかみんなが心配した。しかしその後、全国の同胞から激励の電話、たくさんの物資が届き始めた。 総聯県本部の専従活動家や総聯中央が派遣した朝青ボランティアメンバーらが訪れた際には、「今何が一番ほしい?」と聞かれ、朴さんは「冷たいビールが飲みたい!」と返した。
現場には冷たいビールが50本すぐさま届いた。その話を隣で聞いていたある日本の業者も翌日にビールを届けた。 「こんなにも多くの人が心配してくれ、なんて言ったらいいのか…。本当にうれしい」 朴さんは、18歳まで兵庫県尼崎に住んだ。伯父のつてを頼って新潟にやってきてパチンコ店を始めた。23歳で結婚、3年後に独立し現在の場所に店を構えた。 「当時は小千谷市も田舎で、従業員が集まらず苦労した。子どもが小さいときはビデオを6時間ほど流しっぱなしで見せながら仕事に励んだ」 2、3年で店も軌道に乗った。それから今回の震災に遭うまでの14年間、ひたすら家族のために仕事に打ち込んできた。 おもしろみはないかも知れないといいながらも、「仕事は家族のために必要なもの。しっかりと前を向いて進まなければ」。 子どもたちは日本学校に通うが、訪れる同胞たちに「アンニョンハシムニカ!」と元気なあいさつ。ボランティア活動で訪れた朝青員らともすぐに打ち解け、別れ際には寂しそうな表情を浮かべていた。 そんな朴さんら家族は、県内同胞らと温かい絆でしっかり結ばれている。 「こういう時に同胞のつながりを忘れてはだめだと思った。人の気持ちっていうのがこんなに大事な物だと、初めて心の底から感じた」 店は先日営業を再開した。(金明c記者=つづく) [朝鮮新報 2004.11.20] |