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〈ざいにち発コリアン社会〉 大阪市文化財協会、李陽浩さん

 大阪市内における文化財の調査、整理、研究を行い、積極的な保存と活用を図り、市民文化の発展に寄与することを目的とした財団法人大阪市文化財協会。同協会に1997年から所属する李陽浩さん(35)は現在、1954年から発掘、調査が行われている中央区の「難波宮(なにわのみや)」を担当し、発掘作業とともに発見された遺物の整理、研究を手掛ける。「古代日本の建築物にとても興味がある。その部分にどんどん関わっていきたい」と熱い思いを語る。

2つの時期の宮殿

 「難波宮」の名は、飛鳥、奈良時代(7〜8世紀)の記録にしばしば登場するが、どこにあったのか、長い間その場所はわからないままだった。上町台地の北端(大阪市中央区法円坂)から同宮のものではないかと思われる奈良時代の瓦が出土したことがきっかけとなり、1954年から発掘調査が始まった。

 これまで、50年かけた調査で同宮には2つの時期の宮殿があることが明らかになっている。

 前期(7世紀)と後期(8世紀)の遺構が発掘されており、宮殿の中心部の約10万mが史跡に指定。中心部は難波宮跡公園となっている。

 前期難波宮は、日本最初の本格的な大陸風宮殿といわれ、後期の宮殿は平城京の副都として作られた。史跡公園内には前期の回廊跡、朝堂跡、八角殿跡と後期の大極殿基壇跡、朝堂跡、築地跡などが表示されている。

 史跡の向かい側に大阪城が見えるが、周りは官庁街で、史跡の上に大きなビルを建てようとする動きもあったという。

 「文化財を守っていくのは大切な仕事。7、8世紀は朝鮮半島との交流が活発な時期だった。中国も含めて広い知識、視野を養う必要性を感じている」と李さんは語る。

元々は建築好き

大阪市天王寺区の細工谷遺跡での発掘調査。カゴの中には遺物が見える

 李さんは尼崎朝鮮初中級学校、神戸朝鮮高級学校を卒業後、関西大学工学部建築学科で学び、同大大学院を経て現在に至る。

 「元々、建築好きだったが、考古学や遺跡発掘にはほとんど興味がなかった。ただ、古代日本の建築物には興味があったので、その部分に関われるのではないかと思った」

 大学院時代の恩師のすすめで協会を知り、入社後はすぐに難波宮の調査に携わった。

 発掘調査は長い日数をかけて行われる。ほぼ「肉体労働」に近い。初めての発掘調査はとても苦労したと振り返る。

 「何も知らないところからの出発で、苦労の連続だった。大学生活の10年間を通じて頭の中は理論でいっぱいだったけど、現場は理論だけでは通じない。わからない事だらけだった」

 普通、こうした調査に関わる人は発掘した物が初めてのものだったり、歴史的発見だったりする事に喜びを求めるもの。「まだまだ未熟で、物を見極められるレベルにない」。

 しかし、一番の興味がある建築物のことになると目が輝く。

 「古代日本の建築物を通じ、朝鮮と日本がどのような関係にあったのかをはっきりさせたい。難波宮は朝鮮半島の影響が強いと思う。宮殿を作る時には、木材の調達、運搬から、工費の計算、設計図の作成、建物の飾りつけ、塗装などさまざまな分野で朝鮮半島からの渡来人が関わっていたはず。それを日本で『組織』する事はとても難しかったと思う。その誰もわからない部分を知ることができればおもしろい」

大学院時代と視点一致

 03年8〜9月、南朝鮮の大邱市にある嶺南文化財研究院での研修に参加した。南を訪れるのはこの時が初めてだった。

 同研究院は大阪市文化財協会と姉妹提携しており、互いに研修員を派遣しあって発掘調査の現状を知る場を設けている。「文化が違うと解釈の仕方も違うので、考古学ではまず『現場』を見せるのがとても大事」。

 南に研修に行った際、朝鮮人としての役割を強く感じた。「朝鮮学校を出ているのでウリマルを話せるのが強み。日本の考古学は朝鮮半島を抜きにしては語れない。だから在日としての役割をしっかり担えたらと思う」。

 協会に入った直後、戦後初めて日本人として朝鮮で高句麗壁画古墳の調査を行った日本高句麗会会長(当時は大阪市文化財協会調査部長)の永島暉臣慎さんと出会い、興味深い話をいろいろと耳にし、関心を持った。いつか、朝鮮の発掘調査にも参加できたらと思っている。

 大学院時代には長崎の唐人屋敷の研究に励んだ。唐人屋敷は鎖国時代の中国人の居留地だが、海を経て渡ってきた異国の人たちが日本でどのように暮らしていたのか興味は尽きない。渡来した技術者が大きな役割を果たした今の難波宮の研究とも視点が一致するという。

 「朝鮮半島と日本の文化をつなぐための役割を果たし、建築を通じて社会の役にたてればと思っている。この分野に在日がいることを知ってもらうためにも、今は目の前の事に真しに取り組んでいきたい」(金明c記者)

[朝鮮新報 2004.8.7]