top_rogo.gif (16396 bytes)

強制徴兵、戦地で精神患い2000年に死去した金百植さんの遺骨、故郷へ

 日本の植民地支配時代、強制的に日本軍に徴兵されたのち、精神病を患い、55年にもおよぶ日本での孤独な入院生活のすえ、2000年2月15日に亡くなった金百植さん。遺骨は国平寺(東京都東村山市)に安置されていたが、6月27日、遺族に引き渡された。遺族を代表して弟の金春植さん(63)が南朝鮮から訪日し、遺骨を受け取った。MBC放送が取材のため同行した。金春植さんは28日には、東京都千代田区の厚生労働省と百植さんの入院先であった東京都小平市の国立精神、神経センター武蔵病院(当時は傷痍軍人武蔵療養所)を訪れ、徴兵から入院、亡くなるまでの経緯と、死去後、遺族への連絡を怠った理由などについて説明を求めた。

孤独な入院生活

尹住職(左)らか、兄の遺骨を受け取りお礼を述べる弟の金春植さん

 金百植さんは1944年に日本軍に陸軍二等兵として徴兵され、戦地で精神病を患い、45年5月に長野県の松本陸軍病院に収容された。7月に千葉県の国府台陸軍病院(現在は国立精神、神経センター国府台病院)に、さらに8月に武蔵療養所に転院した。それ以降は、胃がんの治療のための転院(3カ月間)を除く55年間、故郷の家族に居所を知らされることもなく同療養所で孤独に過ごした。

 最後の主治医は、「戦争という過酷な体験が精神的負担となったのかもしれない」と語る。

 病院での金さんは、敷地内の散歩と、売店でタバコとジュースを買ってぼんやりと外を眺めることを日課にしていて、「まったく手がかからなかった」と担当した看護師は振り返る。「言葉も少なく、周囲と交わることがほとんどなかったので、一言でも発してくれるとすごくうれしかった」と言う。

 胃がんに蝕まれた金さんは、再び故郷の地を踏むことなく、家族との再会を果たせぬまま、75歳で亡くなった。

同胞愛に感謝

 日本に家族や知り合いもおらず、引き取り手のなかった金さんの遺骨は、小平市役所と総聯西東京・東部支部職員の手で、無縁仏として00年3月に国平寺に納められた。遺骨とともに安置された金さんの所持品は、印鑑、銀行の通帳、現金約4万円、一枚の写真、そして外国人登録証だけだった。

 朝鮮籍と記されている外登には「京畿道○○郡○○面」と村単位まで記載されていた。国平寺の尹碧巖住職は金さんの家族がいないかと、司法書士の河正潤さんに遺族探しを依頼。河さんは、金さんの外登に記載された村役場に照会の手紙を送った。

 数カ月後、金さんの戸籍がみつかり、同じ村に弟が住んでいることがわかった。

 遺族は、突然の知らせにとまどいながらも、なぜ日本政府は60年もの間、連絡一つしてくれなかったのかと嘆いた。

 春植さんは、3歳のときに離ればなれになった兄のことをほとんど覚えていないが、両親からはよく聞かされていた。亡くなった父は、いつも兄からの知らせを待ち続けていたという。その気持ちを想うと「夜も眠れなかった」。

 生前の兄が異国の地でどのように生きたのか、病状はどうだったのか、なぜ連絡をくれなかったのか、その疑問を解くため海を渡った。

 兄の遺骨を前に深々と頭を下げた春植さんは、「故郷に戻って来れたら病気が回復したかもしれない」「そばで面倒を見てあげる人がいれば」「強制的に徴兵しながら連絡一つよこさない日本が憎い」と、悲しみと怒りに体を震わせた。

 尹住職から兄の写真を渡されると、「亡くなった父にそっくりだ」と初めて笑顔を見せた。兄が亡くなってから国平寺に安置されるまでの経緯を聞き、異国での同胞愛に感謝していた。

対応に深まる疑問

国立精神・神経センター武蔵野病院を訪れ、連絡を怠った経緯などについて説明を聞く金さんと同行者たち

 春植さんは28日、厚生労働省と武蔵病院を訪れた。

 厚労省からは、社会・援護局業務課調査資料室の専門官ら4人が対応したが、国府台病院の退院患者名簿を提示するだけだった。そこには金さんの日本名、日本軍での階級と退院日など、わずか2行の記載があるだけで、病名欄には「臓躁病」と記されていた。

 専門官は、いろいろな資料を調べたが、金さんについて記載された「他の資料はない」と言う。

 また、春植さんの同行者が「交通事故に遭えば家族に知らせる。ましてや、強制的に徴兵したのだから、家族に連絡し、故郷に帰してあげるのが筋ではないか」と食い下がるも、省側は「通常業務内のことしかできない」の一点張りだった。

 厚生省設置法(現在は厚生労働省設置法)には、その任務と所掌事務として「戦傷病者の援護」「旧陸海軍の残務整理」が明記されている。強制連行問題に詳しい専門家は、「旧陸軍の資料を引き継いでいるはず。どこかに資料が残っているだろう」と指摘する。また、国府台病院の退院患者名簿に記載された退院日と、武蔵病院のカルテに記載された入院日が異なっているのが不思議だとも指摘する。

 プライバシー保護という厳しい制限のなかでも、金さんの入院生活について誠意を持って応えていた武蔵病院側も、家族への通知義務を怠ったことに関しては、「できる限りの努力はしたが、家族をみつけられなかった」「今では職員も変わってしまい、当時のことを調査するのも難しい。正確に返答する準備ができていない」と責任の所在をあいまいにした。半世紀以上も生き別れていた弟の来訪にもかかわらず、病院側の準備は満足いくものではなかった。

 一民間人が外登から家族を探し出せたのに、なぜ行政や国立病院が55年以上も探せなかったのか。春植さんの疑問は深まる一方だった。

 専門家の話によれば、厚労省が管理する朝鮮半島出身の軍人軍属戦没者の遺骨は約2300柱。金さんのような傷痍軍人、強制連行犠牲者となるとさらに多い。

 日本の敗戦後、遺骨の多くは返還されたが、日本が自主的に家族を探し出して引き渡した例はないという。

[朝鮮新報 2004.7.6]