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〈華麗に、パワフルにオモニ舞踊家たち〉−中

24時間フル回転

 東京都町田市在住の鄭眞さん(43)の1日は忙しい。初級部1年、5年、そして中級部1年の子どもたちを学校に送り出し、ざっと家事を片付ける。そして化粧品販売の仕事に向かう。舞踊の練習は毎週水曜日、夜7時から。

夜8時半から約1時間半練習は続いた

 西東京朝鮮第1初中級学校に通う子どもたちは、モノレールと電車を乗り継ぎ、片道約1時間かけて登校している。駅から家の近くを通るバスが1時間に1本くらいしかないため、下校時は子どもの帰宅時間に合わせて鄭さんが車で駅まで迎えに行く。最寄駅の多摩センターまで車に乗ってスムーズに行けば往復20分。しかし、子どもたちが携帯電話を持っていないため駅ですれ違うとさあ大変。子どもから連絡が来ない限り鄭さんからは連絡の取りようがない。

 取材当日も、帰宅の早い初級部1年生の息子と筆者を乗せて一緒に家に向かおうとしたのだが、モノレールに乗ったはずの息子がまだ駅に着いていなかった。

 担任の先生に連絡を取ると、モノレールに乗ったまでは確認が取れたものの、慣れない学校生活に疲れて眠ってしまったのか、息子は時間通り駅に現れない。しばらく経って息子から電話。なぜ遅かったのかと問いかけるが、息子の説明はよくわからない。

 一時帰宅し、いざ取材に取り掛かろうとしたところへ次女からの電話。バスの時間を見ると、あと50分は待たねばならない。「ごめんなさいね」と言い残し再び駅へ。帰宅後、しばらくすると長女からの電話…。

 子どもの世話に夕食の準備と、まさに息つく間もなく動き続けている。子どもたちに夕食を出し、鄭さんが練習着に着替えて練習場所の西東京第2初中級学校へ向かったのは夜8時を過ぎた頃だった。鄭さん自身は食事もとっていない。「6月に舞踊コンクールがあるんです。独舞部門に出演しようと思うのですがなかなか振り付けを覚えられなくて」。

舞踊との出会い

 鄭さんが朝鮮舞踊を始めたのは、愛知県で朝鮮学校に通う中級部のときだった。初級部の頃通っていた学校には舞踊部はなく、中級部の頃も指導教師はおらず、高級部の先輩が後輩たちの指導に当たっていた。

舞台に立つため、日頃の練習は欠かせない(大阪)

 「当時は今ほど芸術コンクールが盛んじゃなかった。中級部の頃、西日本地域の大会で高級部の先輩の踊りを見て、私もあーいう風に踊りたい!って憧れたのがはじまり」

 高校生だった78年には第1回平壌学生少年芸術団の日本公演があり、同年、在日朝鮮学生芸術団の一員として祖国を訪問した。

 「夢のような日々でした。それが大きなきっかけとなり、舞踊の講師になろうと思ったほど」

 東京の朝鮮大学校師範教育学部教養員科(当時)で学び、卒業後は地元の朝鮮幼稚園の教諭をしながら中高生たちの舞踊指導に当たった。「自分の身体を鍛え、朝鮮舞踊の幅を広げよう」と、クラシックバレエの教室にも通った。そこで出会った先生が、朝鮮の舞姫、崔承喜の舞いに魅せられた人だった。朝鮮現代舞踊の経験がある鄭さんの踊りは、先生の目に止まった。「朝鮮舞踊を通じて身についた独特な表現力が買われたのでしょう。舞踊には、バレエにはない要素がたくさんありますから」。

協調性学ぶ

 全体的なアンサンブルを重視する朝鮮舞踊では、舞踊家たちが一定レベルで踊れないと見映えが悪い。鄭さんはそれを、「社会主義的集団主義を体で表現すること」に繋がるかもしれないと考える。

 「自分のことだけを考えて踊るのではなく、共に舞台に立っている仲間のことを思い、観客のことを思って力を合わせて1つの作品を作っていく過程は、人生や社会生活の中でも生かされるものだと思う。互いに気遣い思いやる気持ちは、いつの時代、どんな社会でも大切だから」

 鄭さん自身、朝鮮舞踊を通じて、「協調性や相手を思いやる気持ち、努力、自己表現」などさまざまなことを学んできた。「もっと表現したい、自分を高めたい、そして、素晴らしい朝鮮舞踊を多くの人に知ってもらいたい」。そういう気持ちが鄭さんの胸にはいっぱい詰まっている。だから、家事と育児と仕事があっても「それでもやりたい朝鮮舞踊」なのである。(金潤順記者)

[朝鮮新報 2004.5.22]