〈投稿〉 留学同で出会った解放感 |
朝鮮人を否定
大学生になるまで秋田に住んでいた私は、家族や親せき以外の在日朝鮮人に会ったことがありませんでした。 両親は、「朝鮮人としての誇りを持ちなさい」といつも口癖のようにいっていましたが、「朝鮮人としての誇りをもって生きていく」見本のない環境で育った私にとって、朝鮮人であることはマイナス要素でしかありませんでした。
そのため、通名で日本学校に通い、朝鮮人であることを隠すようになりました。なかには「朝鮮人なの?」と尋ねてくる友人もいましたが、とても嫌な気持ちで否定していました。 周りの友人から、自分たちとは違うものと認識されるのがひたすら怖く、朝鮮人を否定することで自分を否定していたのです。 このような経験から「どうしても自分を変えたい」と、大学入学を機に本名を名乗ることにしました。 本名を名乗るようになると、日本の友人から今までは聞かれなかった在日や祖国に対する質問を次々とされるようになりました。しかし、何の知識もない私はまったく答えることができず、本名を名乗ったことを後悔するようになっていました。 そのような思いから在日朝鮮人の友人が欲しいと思っていた矢先、留学同埼玉の誘いを受け、すぐに駆けつけました。 初めて留学同のトンムに会ったときの衝撃は、今でも昨日のことのようにはっきりと思い出します。自然に本名で呼び合い、今まで日本社会や周りに対して作っていた壁をいとも簡単に乗り越えることができたのです。 祖国訪問へ それからは留学同の活動に没頭し、3回生の夏には祖国である朝鮮民主主義人民共和国を訪問する機会に恵まれました。 留学同に出会ったことで朝鮮人である事を当たり前だと思えるようになっていましたが、祖国訪問によってその思いは見事にくじかれてしまいました。 自分の祖国であるはずなのに異国であるかのようなよそよそしい感じ。日本で、朝鮮人だと胸を張っていたことが信じられないほど自分と祖国をつなげて考えることができずにもどかしさを感じていました。 訪問も終わりにさしかかった頃、非転向長期囚の先生方の話を聞く機会がありました。実に40年もの間、独房に閉じ込められ食べ物もろくに与えられない中で、それでも独房同士でやり取りするモールス信号のようなものを作り出して連絡を取り合いながら学習したという、想像もできないような話でした。 それを聞いて、やっと自分の存在と祖国の存在を結び付けて考えることができたのです。私たち在日もお互いに知る術が少ない独房≠ノいるようなものかもしれません。情報の多い日本社会で小さなモールス信号を発信してやっと連帯しているのだと思います。 今まで在日であることに甘え、朝鮮語が話せないことは自分のせいではないと正当化していました。しかし自分よりもっと過酷な状況にありながら、「どんなに道が険しくても笑いながら歩いていこう」と言って決して屈しなかった同胞がいるのです。その姿に接した時、状況にただただ甘えていた自分を恥じずにはいられませんでした。 独房≠フような日本にいたとしても、モールス信号を使うように連絡を取り合って団結し、意志を貫くために学び続けることで私たちも勝利できるのだと思いました。 専従活動家に 4回生になり、自分の進路について深く悩むようになりました。在日同胞社会のためになることをしたいというばく然とした気持ちはあったのですが、それをどのような形で職業に結び付けるかをなかなか決められずにいました。でも自分なりにこの4年間を振り返ってみて、私の答えは常にこの4年間の活動の中にあったのだと思いました。 留学同に出会って感じたあの解放感。感銘を受けたトンムや先輩たちの生き方。祖国で学んださまざまな歴史、そして非転向長期囚の先生方の姿。そのすべてが留学同の時期に得たことをあらためて考えた時、私の答えは一つしかありませんでした。 私は、留学同で専従活動家として活動することを決心しました。あまりにも未熟で勉強不足ではありますが、自分がそこで得た大きな財産の少しでも恩返しができるよう努力していきたいと思っています。(李全美) 李全美さんは今春大学を卒業し、留学同埼玉地方本部副委員長に配属された。 [朝鮮新報 2004.4.20] |