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総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(13)

 共和国と、さらに第3国への自由往来は在日同胞の念願のひとつであった。1970年代に入り、制限はあったもののそれが実現した。まず、総連と在日同胞の粘り強い努力の結果、67年から中断していた帰国船の再開第1次船を71年5月に新潟港に迎えた。

 帰国船の再開を果たした総連と同胞らは祖国への短期訪問団を募った。79年8月12日には第1次在日同胞短期祖国訪問団事業がスタートした。8月末には訪問団のために大型旅客船「三池淵」号が新潟を往来するようになる。家族や親族訪問、知人との再会のための祖国訪問は純粋に人道主義的措置として同胞たちの支持を得た。また80年ごろから朝鮮高級学校生徒と朝鮮大学校生たちの祖国訪問(修学旅行)も始まった。

 在日朝鮮人の第3国への旅行は、72年6月に初めて実現した。ハンガリーで開かれた国際教員職業同盟会議に参加するために在日本朝鮮人教職員同盟代表(随員含めて4人)が6月3日、日本を出発。「解放後はじめて海外渡航の自由を獲得」(本紙72年6月5日付)した。その後、モンゴルで開催された第2回アジア、アフリカ女性大会(72年7月13〜18日)にも在日本朝鮮人民主女性同盟代表団が参加している。総連と各在日同胞団体の強い要請により、金日成主席の生誕60周年在日本朝鮮人祝賀団の再入国が実現し、東京朝鮮中高級学校サッカークラブと横浜朝鮮初級学校音楽舞踊クラブの祖国訪問などが可能になった。祖国と海外渡航の自由を拡大するうえで当時の活動は意味深いものであった。

 民族保険機関の設立も在日同胞の切実な要求であった。商工連合会が56年ごろから火災保険の代理業務を、68年当時海洋商事が副業として保険業務を行ったことはあるが、それを専門に扱う同胞機関はなかった。同胞らの保険面での権益を擁護し、総連の大衆的地盤を拡大するためにもその設立が求められた。76年以降各地で金剛保険商会が設立され、それを指導統括する機関として77年4月18日に金剛保険株式会社が発足した。13地域、33人の専従職員からの出発であった。

 損害保険事業から始めた金剛保険だったが、78年4月からは生命保険分野も展開した。88年4月からは組織、業務、財政体系の統一化を図るために各地の商会を統合した。日本の金融自由化や景気の停滞などの影響はあるものの、その後も金剛保険は同胞の権益擁護機関の貴重な一翼を担っている。(呉圭祥、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2004.2.10]