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総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(10)

 「韓日条約」の締結(1965年6月)と批准後、総連と在日朝鮮人に対する全面的な弾圧攻勢がかけられた。共和国を敵視する日本と南朝鮮の国家機関による差別と弾圧は、従来の次元とは完全に異なり、全面的かつ露骨なものだった。

 そのような状況下で総連はまず、公民権擁護に立ち上がった。日本当局は65年10月に「政府統一見解」を発表し、「朝鮮籍」は記号に過ぎないとした。総連と同胞らはこれに反対し逆に「韓国籍」から朝鮮籍を取り戻す運動を推し進めた。また「協定永住権」を付与するとして執ように在日朝鮮人に「韓国籍」を強要(申請期間は67年1月から満5年)した当局に対し、総連はその本質を暴露し「韓国籍」強要に反対した。

 民族教育に対する圧力も強まった。民族教育を認めず、日本人への同化を計った65年12月の2種類の文部次官通達も出された。また「外国人学校法案」などで民族教育を弾圧しようとした。総連と在日同胞らは、次官通達に反対し、民族教育の権利を守るために必死に活動した。民族教育の質的向上に力を注ぐとともに各種学校として認可を得る運動をすすめた。その結果、ほとんどの学校が学校法人として認可を受け、「認めない」とした次官通達は結局形骸化した。弾圧「法案」も何度か国会に上程されたが、日本国民の支持などのおかげで廃案に追い込まれた。

 在日朝鮮人の社会活動に対する規制の強化や強制退去を念頭においた「出入国管理法」などの改正反対運動も力強く推し進められた。

 「韓日条約」締結後には、民族金融機関である同和信用組合(後の朝銀東京、本店と上野支店)に対する強制捜査事件も発生(67年12月)している。朝信協と同和信用組合は直ちに抗議、収拾した。強制捜査が入ったとの連絡が入った瞬間から、近隣の同胞らが駆けつけ組合を守るために抗議要請活動を展開した。取り付け騒ぎなどは一切起こさなかった。組合は翌日から正常に営業した。

 さ細な交通事故などに際しても官憲が「なぜ韓国籍に変えないのか」、銀行の融資でも「韓国籍だったら容易にできるのに」など、「韓国籍」強要は生活レベルにまで及んだ。弾圧が強化されるなかでも総連は屈せず活動を進めた。(呉圭祥、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2004.2.3]