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総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(8)

 1960年、南朝鮮の市民と学生たちは不正選挙の追及をきっかけに、4.19人民蜂起などを起こして光復直後から15年間も君臨し、親米独裁をほしいままにした李承晩(48年からは大統領)を打倒した。

 祖国の自主的平和的統一のために活動する事を、民族に対する神聖なる義務ととらえていた総連と傘下の同胞たちは、彼らの反米反独裁運動を支持する活動を展開した。「行こう北へ、来たれ南へ」−南朝鮮市民、学生たちが口にしたスローガンは、当時の高揚する統一運動の雰囲気を端的に表したものだ。

 総連は各県本部委員長及び各団体代表者会議(60年5月)と中央委員会第30回会議(63年3月)などを通じ、祖国の平和的統一を目指すならば政見、思想、信仰、財産、過去の経歴などの如何にかかわらず、反目していた民団とも協力していくことを確認している。祖国光復後、初めて総連と民団関係者が同席したのがこの頃である。在日本朝鮮人言論出版協会と在日韓国人記者団との懇談会(61年1月)も開かれ、2回目の懇談会では共同声明を発表した。

 また総連は、米国の指示の下に開始された「韓日会談」にも反対し運動を展開した。民戦時代にも反対闘争を呼びかけ、総連結成大会の方針でも反対を表明した。

 予備会談は51年10月、東京のGHQ外交局の会議室でシーボルト外交局長参加のもとに始まり、7次におよぶ本会談を通じて基本条約などを調印(65年6月)したが、双方で広範な大衆レベルの反対闘争が起きた。

 その理由は、「朝鮮半島の唯一な合法的政権は大韓民国」であるとして、朝鮮民主主義人民共和国に対する敵視を露にした事、日米安保条約と米韓相互防衛条約が現存する状況で「韓日条約」が締結された場合、米国主導の「東北アジア軍事同盟」が結成されるという点、日本軍国主義の南朝鮮再侵略の道を開くなど朝鮮の統一が遠ざかるという事で、断固反対の立場を取った。在日同胞の処遇問題においても、日本と南朝鮮当局が在日同胞を政治的取引の材料にする事を危惧した。

 64年に限って見ても、総連は中央委員会第7期3回(5月)、4回(8月)などで対応策を打ち出し、「韓日会談」反対、祖国統一要求の大小集会を延べ8600回も開いている。これらの活動は、朝鮮半島の分断固定化に反対し朝鮮の平和的統一を願う総連と在日朝鮮人の熱い思いを結集したものだった。(呉圭祥、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2004.1.29]