総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(7) |
1960年代中盤まで、在日朝鮮人には自国を往来する権利すらなかった。帰国の権利を得た59年12月以降、同胞の中から祖国往来の自由を求める声が高まった。63年の5.1メーデーを記念する在日本朝鮮人中央大会では、祖国往来の自由を求める決議が採択された。共和国政府は7月15日付の声明で、日本政府が即時具体的な措置をとるよう強く求め在日朝鮮人の運動を鼓舞した。 総連は中央委員会第31回会議(63年7月)で、報告「在日朝鮮公民の祖国への往来の自由を実現するための運動をより強化するために」を討議決定した。報告は「往来の自由は在日朝鮮公民の当然の民主主義的民族権利のひとつであり、誰によっても蹂躙されてはならない問題である」と指摘した。 その後、総連は往来運動を組織と同胞挙げての運動と位置づけ、活発に展開した。要請運動や署名運動はもちろん祖国往来要請団の大阪―東京間の徒歩行進(64年3月16日〜4月21日)などで世論に訴え盛り上げた。 これに押されて日本当局は65年12月、3人に対して再入国許可を出し、在日朝鮮人2人がはじめて共和国を往来した。総連はこれを第1次在日同胞祖国訪問団と位置づけた。彼らは北半部出身で、故郷での歓迎会に参加した。しかし、日本当局は政治活動に参加したと難癖をつけ、再び往来の道を閉ざした。 68年、朝鮮民主主義人民共和国創建20周年記念在日朝鮮人祝賀団が祖国往来の再入国許可を申請したが日本当局は却下。祝賀団は法廷闘争に持ち込み、地裁、高裁で勝訴したが、最高裁は時期尚早ということで肩透かしをくらわした。だが、ここで重要なのは総連の主張を司法当局も認めたという点だ。その後、70年代に入って祖国への往来が一般化した。 この問題と関連して、日本国内では在日朝鮮人に対する人権侵害事件が相次いだ。日本当局は総連対馬本部、茨城県本部などを強制捜索したばかりでなく、神奈川朝鮮高校生徒が日本の高校の文化祭で殴り殺される事件(62年)など、一部の日本人による朝鮮人に対する暴力事件が横行した。総連は、弁護士などで作られた「在日朝鮮人の人権を守る会」(63年10月26日結成)と協力し合いながら、人権侵害問題が起きないようさまざまな対象に働きかけた。 また、60年6月何者かの放火によって焼失した中央会館(東京信濃町)の再建に努め、63年4月に現在の所在地である千代田区富士見に新しい会館を竣工させた。これは同胞たちに誇りと自信を与え、総連活動を発展させる新たな契機となる出来事だった。(呉圭祥、朝鮮大学校教授) [朝鮮新報 2004.1.27] |