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総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(6)

 在日本朝鮮人商工連合会は1959年6月の第13回定期大会で、共和国公民として、祖国の統一と在日同胞の諸権利獲得の一翼を担うため、総連への加盟を決定した。

 その後商工連合会は、各地商工団体と同胞商工人を結集させるために組織強化を図った。60年代に入って役職員と商工人に対する啓蒙活動も活発に行った。とくに63年からは経済学院での講義も始まり、初年度だけでも3002人が受講した。こうした過程を通じて、61年5月〜64年6月の3年間だけでも専従役職員数は2.3倍、都道府県商工会は19カ所から37カ所に、地域商工会、協同組合、納税組合は153カ所から295カ所に増えた。62年4月には朝鮮商工会館も竣工した。

 同胞の経済活動は朝銀の発展とつながることは言うまでもない。総連運動が高揚した60年代の前半期の数値を見てみよう。60年3月〜65年3月の決算期を比較すると、信用組合数は12から26、店舗数は32から65、組合員数は2万2722人から6万8547人に増え、預金額は49億円から300億円に達した。53年の朝信協結成後78年までの25年間を通じて、この5年間が6倍と、最高の伸び率を示した時期だ。

 総連と同胞商工人たちは60年代初頭、かねてからの念願であった祖国との貿易の道も開いた。祖国光復直後の日本貿易庁への申請に始まり、54年11月商工連合会の朝・日貿易推進委員会設置、朝・日間貿易禁止などの各省次官会議決定(55年10月)、そして56年の朝鮮−中国・大連−日本ルートによる間接貿易などを経て、朝・日貿易実現のための活動が繰り返された。

 61年6月、商工連合会は祖国との貿易を希望する同胞商工人らの参加の下、帰国船が入港する新潟で、「祖国貿易実現在日本朝鮮人大会」を開催。7月には6地域でも大会を開催した。8月6日には祖国貿易推進在日朝鮮人委員会第1回会議を開き、翌7日には東海貿易株式会社(後の東海商事)を発足させた。12月には大阪から共和国へ向けた貿易船第1便が出港した。各省次官会議の決定は内外世論に押される形で撤回(61年4月)された。

 在日同胞は日本経済の高度成長の流れの影響を良くも悪くも強く受けた。

 60年代前半期、祖国を身近に感じた出来事としては、世界スピードスケート選手権大会(63年2月)、東京オリンピック(64年10月、妨害により参加できず)に参加するために共和国の代表団が日本に来たことがあげられる。(呉圭祥、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2004.1.24]