総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(4) |
1950年代後半から60年代初期にかけて、帰国運動が高揚した。 在日朝鮮人の帰国は、45年8月の祖国光復直後の約240万人から始まった。翌46年3月の統計では64万7006人となっている(GHQ調査)事から、かなりの数が帰ったことになる。帰国問題は、朝鮮戦争停戦(53年7月)後に再び浮上した。とくに56年2月、共和国在住の日本人の帰国問題をテーマに朝・日赤十字会談が開かれ、4月に日本人帰国のために巡視船「小島丸」が派遣されるようになってその成り行きが注目された。 光復直後の帰国は、それぞれの故郷へ帰ることであったが、朝鮮戦争後は南朝鮮を故郷とする人が共和国へ帰って行った。当時同胞の93%が南朝鮮出身者であった。 帰国運動の本格的始まりは、58年8月11日に総連川崎支部中留分会の同胞たちが帰国を希望する金日成主席あての手紙を採択したことだ。そして、13日の祖国解放13周年記念中央大会で手紙の送付が決まった。主席は共和国創建10周年記念慶祝大会で在日朝鮮人の帰国を「熱烈に歓迎します」と表明、「民族的義務である」とまで述べた。 総連は帰国を希望する同胞たちの要求をくみ、この運動を大衆運動として展開した。総連中央委員会第15回拡大会議(58年10月)は、在日同胞の生活実態と共和国の措置、帰国の正当性、具体的な対策などを討議、提起した。 在日同胞の帰国運動は、3つの段階に分けて展開された。第1段階は58年8月から翌59年2月13日の日本政府の閣議了解まで。2段階は、それから朝・日赤十字会談の開催、帰国協定調印の8月13日までだ。3段階目は、帰国者を「犯罪者の送還」であるかのように規定した日赤の「帰還案内」を撤回させ、帰国を実現させるまでである。 各階層の同胞と総連の各機関は、帰国実現のための集会、ビラ配布、国と地方の各行政機関への要請活動、署名運動を活発に繰り広げた。多くの同胞たちが炎天下の日も、雨や雪の降る日も、手弁当で進んで運動に取り組んだ。59年10月までに、大小の集会は1万9322回、延べ234万9500人が参加し、2739万5000枚の宣伝物が配布された。 そして、日米当局の妨害、帰国船攻撃情報、民団の「在日同胞北送反対闘争」などを跳ね除け同年12月14日、在日朝鮮人の神聖な基本的人権である帰国が実現した。 今日帰国問題には諸見解があるが、当時の@同胞の生活苦と将来に対する志向性、A日本当局の変わらぬ差別、B同胞を棄民扱いした南当局に対して、同族として対応した共和国の対応の差など、帰国運動は共和国側から提起されたわけでもなく同胞の自主的要求であったといえる。(呉圭祥、朝鮮大学校教授) [朝鮮新報 2004.1.20] |