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総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(3)

 総連の結成は、在日朝鮮人運動の転換ばかりでなく民族教育においても新たな転換的局面を切り開く契機となった。

 解放直後から始まった在日朝鮮人の民族教育は、1948年の阪神教育闘争と49年10月19日の学校閉鎖令反対闘争などを経て、民戦時代には試練期におかれたが、総連結成後には再び発展することになる。総連は何よりも教育において事大主義的傾向に注意を払い、民族教育の主体性を確立するようにした。

 各地で民族学校の創設と校舎の増改築が盛んに行われた。九州地方で初めての九州朝鮮高級学校の開校(56年4月)をはじめ、総連結成時から61年までに18校を新設した。「朝鮮学校ボロ学校」と揶揄されることもあったが、59年1月には東京朝鮮第1初中級学校を初めて鉄筋校舎として竣工するなど朝鮮学校の校舎、教育設備などの刷新に努めた。

 総連はまた、教員の質的水準の向上のために教育研究、教員再教育、教育行政体系の確立を進めると同時に「在日本朝鮮人教育熱誠者第1回大会」(57年1月)の開催、10年勤続教員および教育活動家の表彰(56年10月)などを決定し、民族教育全般に新風を起こした。

 とくに、画期的な転換をもたらしたのは朝鮮大学校の創設である。大学教育の実施は在日同胞の間で以前から望まれていたが、本格化したのは総連結成後である。

 総連は結成大会で、「朝鮮師範専門学校」を「今後大学課程を履修できる高等教育機関に発展させる」ことを決めた。55年9月の総連中央委員会第2回会議で朝鮮大学校創立を決定、同建設委員会を組織。「大量的な愛国幹部養成のために全60万同胞の活動として」大学を建設するとした。そして56年4月10日に朝鮮大学校を2年制の大学として発足させた。

 朝鮮大学校の創設は在日朝鮮人の民主主義的民族教育が体系的に確立されたことを意味し、民族教育と在日朝鮮人運動の発展に重要な意義を持つ出来事だった。「時期尚早論」「大学無用論」が飛び交うなかで、あらゆる難関を乗り越え、59年6月には東京都小平市に新校舎を竣工。同大の教育事業と研究活動において新たな契機となった。62年には4年制の1期卒業生が同胞社会に巣立っていった。

 この間、民族教育発展を鼓舞したのは、共和国から送られてきた教育援助費と奨学金(注)であった。まさに生命水であった。解放から現在まで続いている在日朝鮮人の宝、民族教育は在日朝鮮人運動の生命線である。

 (注)初めて教育援助費と奨学金が送られたのは1957年4月。以来、昨年4月(149回目)までの総額は日本円にして451億616万3000円。(呉圭祥、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2004.1.17]