〈兵庫県宝塚市の朝鮮学校補助金減額〉 日本の各界人士も「絶対に許せない」 |
兵庫県宝塚市が来年度予算案から朝鮮学校の保護者補助金を減額する方針を発表したことに対し、伊丹朝鮮初級学校(昨年、宝塚初級学校と統合)保護者、同胞はもとより多くの市民の間から怒りの声が上がっている。反対署名運動などを展開している2氏に話を聞いた。(まとめ、千貴裕記者) 存亡に関わる問題 10月末、朝鮮学校に対する市の補助金削減案について聞かされた時、正直驚いた。というのも、教組を含む5つの市民団体と市との「宝塚市における外国人の人権保障に関しての交渉(8年前から毎年実施)」が、11月10日に予定されていて、しかもわれわれが朝鮮学校への補助金増額を要望したことに対し、阪神間の他市とのバランスをみて考えていきたいとの市側の回答書をすでにもらっていたからだ。 なぜ、市側は交渉の日程まで決まっていたにもかかわらず、その10日以上も前に抜き打ちに直接、学校に削減案について申し入れをしたのか。対市交渉を無視した市の行動は理解に苦しむ。 宝塚市は、他の自治体に比べ朝鮮学校に対する補助金を多く支出しているが、かといって削減してもまだ他に比べ高いレベルにあるとの軽い気持ちでは困る。そもそもすべての住民から徴収した税金を義務教育過程にある小、中学校に充てるのは当然のことであり、義務教育として必要なカリキュラムを教えている朝鮮学校を学校として認めていないことが大きな問題なのだ。 仮に、同校に通う児童が日本の学校に通うことになれば、その児童に対する助成がなされるわけで、そう考えても同じ額を補助するのは決して損失とは言えず、逆に当然支出せねばならぬ額だろう。 まして市は、その最低限の額を14万円と決めたわけで、維持こそすれ減額などありえない。いくら財政難に直面していても削減できない予算だ。それでなくても少ない補助金を3割削減することは、朝鮮学校の存亡に関わる問題だ。 在日朝鮮人も同じ納税義務を果しているのにこんな理不尽なことはない。絶対許される事ではない。この問題に関しては多くの団体、そして全会派の市議たちも賛同しているが、普通に考えれば当たり前のことで、減額案を推進している人たちの感覚がおかしい。 日本の子どもであれ、朝鮮の子どもであれ、平等な教育の場を与えたい。 われわれ教組も、最低1000人分を目標に減額反対の署名活動をしている。(藤原清美、兵庫県教組宝塚支部執行委員) 増額こそ正当な要求 日本国の憲法は、義務は平等に負わせているが、権利はすべての市民に不平等にしか与えていないということを、朝鮮学校と日本学校に通う子どもたちとその保護者たちの置かれている現状を比べて、よくわかるようになった。これは昨年、伊丹初級と統合した旧宝塚初級との交流を20数年前から続けてきた過程で市民らが共通に認識をしたことだ。 交流を通じて現実を少しずつ知り、置かれている現状をもっとよくしていくことを朝鮮学校の関係者だけの問題ではなく、われわれ市民の問題として取り上げてきた。そして運動を推進し、少しずつ前進させ到達したのが今の14万円(朝鮮学校に対する1人当たりの保護者補助金の年額)だ。 積み重ねてきた交流と人間関係、培ってきた信頼関係のなか、朝鮮学校関係者や市民たちの努力で得たこの成果を切り崩されることを黙って見過ごすことはできないし、素直な怒りを覚える。 朝鮮学校を取り巻く経済的な差別を、端的な問題として取り上げなければ何も変わらない。日本学校の教師たちも自らの教育環境を整えるための請願書を提出してきたが、必ず朝鮮学校の問題もともに取り上げてきた。 自分たちを含めすべての教育環境をよくすることが一番大事との思いからで、朝鮮学校の保護者たちの経済的な不平等をほうっておいたら何も変わらないとの共通認識を持ってきた。 朝鮮学校の補助金減額反対に関する集りに参加したが、多くの市民が怒りをあらわにしていた。 14万円という額は、兵庫県では高い水準にあるが、それは単に他が低すぎるからと認識している。朝鮮学校に対しては、「平等に与えろ」ではない。平等でないこと自体が間違っている。補助金の増額は正当な要求だ。税金は平等に収めさせて、保障はしない。まったく矛盾したことで、市の方針はまさに「学校をなくせ」といっているように思える。 学校があったからこそ、いろいろな出会いと理解が深まった。宝塚朝鮮学校がなくなった今、伊丹朝鮮学校までなくそうとすることは絶対に許されない。(佐々木基文、武庫山平林寺塔頭高野山真言宗西光院住職) [朝鮮新報 2003.12.19] |