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関東大震災朝鮮人虐殺関連日弁連調査報告書(8)

(6)関東戒厳司令官の告諭及び命令について

 前述のとおり、震災発生直後の9月3日、戒厳令が発せられた。この勅令第401号戒厳令に基づく関東戒厳司令官告諭(大正12年9月3日)は、次のように述べている。

 「…本職れい下の軍隊及び諸機関(在京部隊のほか各地方より招致せられたるもの。)は、全力を尽くして警備、救護、救じゅつに従事しつつあるも、この際地方諸団体及び一般人士も、また、自衛協同の実を発揮して災害の防止に努められんことを望む。

 (ア)不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加するの不利を招かざること。」(資料第4の7『関東大震災から得た教訓』(陸上幕僚総監部第三部)9頁)。

 また、戒厳令司令官令(大正12年9月4日)は、次のように述べている。

 「軍隊の増加に伴い、警備完備するに至れり、よって左のことを命令する。

 (ア)自警のため、団体若しくは個人ごとに所要警戒法をとりあるものは、あらかじめ、もより警備隊、憲兵又は警察に届出でその指示を受くべし。
 (イ)戒厳地域内における通行人に対する誰何、検問は、軍隊憲兵及び警察官に限りこれを行うものとす。
 (ウ)軍隊、憲兵又は警察官憲より許可するにあらざれば、地方自警団及び一般人民は、武器又はきょう器の携帯を許さず。」(資料第4の7陸上幕僚総監部第三部著『関東大震災から得た教訓』15頁)

 これらの告諭及び命令は、「不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加する」事態の存在を前提にしており、こうした状況が生じてしまっていたこと(ないしその懸念が生じていたこと)を示している。そして、自警団を初めとする一般人による、通行人に対する誰何、検問、武器、凶器の携行が行われていたところ、軍隊による警備完備に伴って、そのような事態を変更しようとしたことを示している。

 このように不逞団体蜂起の流言飛語の流布という状況は自警団による虐殺行為の前提として存在していたのであり、戒厳司令官はこのような事態を認識したうえで、その転換を図る挙にでたのである。

 これは、こうした事態が国家的関与と国家的政策の支配の下におかれていたことを示しているともいえる。

(7)流言飛語の発生、自警団創設に関する国の関与と、自警団による朝鮮人虐殺

 朝鮮人の不逞行為云々はまったく事実ではないにもかかわらず、国(内務省警保局)は、朝鮮人が放火、爆弾所持、投擲(てき)、井戸への毒物投入等をおこなっているという誤った事実認識および「周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加え」るべきであるという指示を、海軍送信所からの無線電信により全国に伝播させ、また、電報や県の担当者との会合において各県担当者に伝達した。これにより、各県の地方長官は、通牒を発して管下の各郡役所、さらに管下の町村に伝達した。すなわち、内務省警補局と県の地方課長の打合せの下に、朝鮮人による不逞行為の発生という認識と、これに対する監視と取締りの要求が、県内務部、郡長、町村長のルートを通じて伝達され、消防、青年団を通じて自警団を組織し、自衛の措置を講ずることを指示した。これが各地における朝鮮人殺害等の虐殺行為の動機ないし原因となったものである。

 上にみたとおり、埼玉県においては、『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』との通牒により、各町村において自警団が結成され、また、朝鮮人は東京において暴行をなし、埼玉県下においてもいかなる蛮行をなすやもしれないとの誤った認識を自警団はもちろん地域住民に広くひろめた。そして、これが自警団員等において朝鮮人の殺害行為等の動機を形成する重要な要素となったものである。

 内務省警保局との打合せに基づいて県内務部長から各郡役所、各町村へと通牒が伝達指示されたことが現在はっきり確認できるのは埼玉県の場合にとどまるが、同様にして、内務省警保局長の打電は各町村の末端に至るまで徹底されたと考えられ、これにより、朝鮮人の放火、爆弾所持などの「不逞行為」の存在は、中央政府の治安当局の指示、命令として確認された事実として周知徹底され、各地において朝鮮人に対する監視と取締りの体制が採られたのである。「武装」という指示は具体的に示されているわけではないが、当時の状況からすると、それが前提とされていたと考えられる。

 各県庁に県知事の掌握する警察部があり、市と郡役所所在地に警察署、その他の町に警察分署、村には巡査駐在所が置かれた。さらに警察だけでは力が及ばないときには、自警団が補助警察として出動した。なお首府の警察としては警視庁があり、これは警保局と並び、内務大臣の直轄であった。

 このように、各県の警察部は上記のように内務省警保局長の下に位置し、その指揮下にあったのであり、警保局からの指示によって、警察組織はその指示どおりに動いた。

[朝鮮新報 2003.12.9]