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関東大震災朝鮮人虐殺関連日弁連調査報告書(7)

(4)刑事事件判決に判示された事実

 このような経過は、朝鮮人に対する虐殺行為について検挙され、公訴提起された自警団員らの刑事事件判決(資料第4の1ないし5)においても明らかにされている。

(ア)片柳事件判決外の浦和地裁判決

 前掲の浦和地方裁判所大正12年11月26日判決(資料第4の5)は、当時の埼玉県北足立郡片柳村における朝鮮人に対する殺人被告事件(いわゆる「片柳事件」)である。前記のとおりこの事件は、自警団が日本刀や槍等を携帯して警戒に従事中、被害者である朝鮮人が差し掛かったところ追跡し、槍で胸部を突き刺し、転倒したところを日本刀で右腕や臀部を斬りつけ、後頭部を槍で突き刺して、その結果死亡に至らしめたという残虐かつ酸鼻なものであるが、当時の朝鮮人虐殺の典型的な事件ともいえるものである。

 この事件の判決は、その理由中に、このような虐殺行為に至った経過について以下のとおり判示している。「不逞鮮人が過激思想を抱ける一部の内地人と結託して右震災に乗じ東京市等に於て盛んに爆弾を投じて放火を企て或は井戸へ毒物を投入する等残虐の所為を敢てし…との流言浮説頻に喧伝せられ同村地方民は痛く之に刺激を受け興奮し居れる折柄県当局者に於ても咄嗟の間当時誤風説の根拠たる帝都における鮮人の不逞行為に付き其真偽を探究するの術なかりしより万一の場合を慮り翌二日の夜所轄郡役所を介して夫々管内の町村役場に対し予め消防手在郷軍人分会青年団等の各首脳者と協議し警察官憲と協力の上叙上不逞の輩の襲来に備うべく自警の方策を講ぜられたき旨の通牒を発したるより被告等居村民も亦同月3日夜より各自日本刀槍等の凶器を携帯し居村内に於て之警戒に従事中…」(同第3丁)。

 このように片柳事件の判決は、「県当局者」が9月2日夜、東京等で朝鮮人が放火や井戸への毒物の投入などの不逞行為を行っているという風評について真実かどうかの確認の時間もなかったため、郡を通じて町村に対し、在郷軍人会、青年団、消防団等に警察等と協力のもとに不逞の輩の襲来に備えるための「自警の方策」をとるようにとの「通牒」を発したことにより、自警団が日本刀などで武装して警戒し、朝鮮人に対する無差別的な殺人に及んだことを事実認定しているのである。

 この経緯は、浦和地方裁判所における前掲の神保原事件、寄居事件、熊谷事件、本庄事件、妻沼事件(いずれも大正12年11月26日判決)の各判決においても、いずれも同様の事実認定がなされており、これが埼玉県内の各地における朝鮮人虐殺事件に共通する背景事実であることを示している。

(イ)国会質疑にあらわれた「通牒」の内容

 なお、判決において判示されている「通牒」の内容は、次のようなものであったと伝えられている。すなわち上記永井柳太郎の質疑「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑(前回の続き)」106頁、資料第1の1「現代史資料6」480頁、及び、資料第1の2「朝鮮人虐殺関連官庁史料」67頁所収によれば、「現に浦和地方裁判所に於きまして、大里、児玉両郡々書記が陳述致しました証書に依ってもその移牒電話は大体次の如きものであったのであります。『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』と云うことであります。」との事実が指摘されている。このように、この通牒文は当時書証として残っていたことが明らかにであり、その内容は上記判決に判示された通牒の内容とほぼ同じである。

(5)千葉県八千代市在住者の残した日記による記録

 千葉県八千代市で発生した自警団による虐殺については、八千代市が1979年に編集、発行した「八千代市の歴史」(資料第4の9)に記録されている。同書549ないし550頁によれば「村の各区では自警団が組織され、鳶口、槍、日本刀、猟銃などを持って部落の入口の警備にあたりました。また、高津廠舎に軍の命令で朝鮮人を引き取りに行って殺害したりしました。大和田地区では数人が殺されたといわれています。」と記載されている。この調査結果を裏付ける貴重な資料として、当時の地域住民の日記(資料第4の10)が保存されている。

 大正12年9月の部分、3日の欄に、次の記載がある。「区長の引続ぎ(ママ)をやる。(中略)と決定。一切を渡す。夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。」(資料第1の6、資料第4の10『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼、調査実行委員会編)6頁)。

 これは、自警団を組織して不逞鮮人の警戒に当たることになった経緯が、役所からの通知によるものであることを示している。その結果、軍の指示により、拘束されていた朝鮮人を、地域の自警団員が引き取って殺害するという事態が引き起こされたのである。この事実も、自警団による朝鮮人虐殺が、内務省警保局からの命令と、これによる地域(村役場)毎の指示に基づくことを示している。

[朝鮮新報 2003.12.6]