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石原妄言に対する日本の識者のコメント

 石原東京都知事の「日韓併合は朝鮮人の総意による」などの妄言に対し、日本の識者がコメントを寄せた。

 内容は次の通り。

無教養、丸出しの差別意識

 歴史についての無知、他者に対する完璧な想像力の欠如、そして強烈な差別意識を丸出しにした発言だ。自分の国が他国(この場合は日本)の植民地になることを望む人間がいったいどこにいるというのか。毎度のことながら、石原都知事の教養や品性のなさに呆れ返った。

 しかし、今回も石原氏は責任を問われないだろう。むしろ「よく言った」という激励の声が都庁に寄せられているのではないか。8年前、江藤隆美総務庁長官が「植民地時代に日本が韓国にいいこともした」とオフレコ発言して辞任に追い込まれたことを思うと、ここ数年の社会の急激な変貌に恐ろしさやとまどいを感じる。

 しかし考えてみれば、石原発言に表れた強烈な差別意識や排外主義は、戦後社会の底流に脈々と生き続けてきたものだ。ただ、この間までは、それが表面化しようとすると国内外の批判を浴びて封じ込められてきた。

 それが最近では、批判よりも拍手喝采を浴びることの方が目立つようになってきた。なぜ、そうなったのかというと、戦後民主主義の自由、平等、平和の理念(それはとりもなおさず反差別の理念だ)が、いつのまにか建前と化し、挙げ句の果てに、その建前すら崩壊してしまったからだろう。

 朝鮮半島の問題だけに限らない。長崎の男児殺害事件を起こした少年の「親を市中引き回しで打ち首に」という鴻池発言にもみられるように、いま日本では、多くの人間の心の奥に潜む下劣な感情や短絡的な発想が歯止めを失って一気に噴き出し、社会の表舞台に跳梁跋扈し始めている。そういう事態を目の当たりにしながら、私にはどうしたらいいかわからず、ただオロオロするばかりだ。(魚住昭、ジャーナリスト)

知事、人の名に値するか

 在日の知人から悲鳴のような連絡をいただいて、この件を知った。いくらなんでも酷すぎる。他者を見下し、おとしめることとリーダーシップとやらを完全に混同した、異様に精神年齢の低い老人。彼はこれでも知事、いや、人の名に値するのだろうか。

 心の機微を描くのが商売の作家≠ナもあるというから恐れ入る。世界や人間の何事かを、こんなものに理解も表現もできようはずがない。にもかかわらず、というよりだからこそと言うべきか、かくも低俗な輩がますます、この国の大衆人気を高めているようだ。

 マスメディアもまったく批判しない。都庁記者クラブでの定例会見をのぞいてみるとよくわかる。日頃は偉そうにふんぞりかえっている連中が、どいつもこいつもガキ丸出しのこわもてポーズに戦々恐々、記者ならぬタイコモチになりきって恥じもしない。

 最悪のテロ国家アメリカの家来以上でも以下でもないこの国は今、世界中の笑いものである。個人一人ひとりもまた、そのアメリカの猿真似グローバリーゼーションとやらに巻き込まれてほとんど奴隷、企業の論理に身も心も絡め取られるだけの生活を強いられて、結果、最低の差別社会が剥き出しになった。

 今の日本人は狂いかけた自らのアイデンティティーを保つため、他者への優越感を覚えるためなら、どんなことでもやってのける。戦争も辞さないというくらいだ。もともと弱い立場に置かれている人々や集団に対する差別など朝飯前で、そんな愚劣な精神構造に、石原のような手合いがつけ込んでいく。

 この国はもう駄目だ。どこまでもとめどなく暴走し、再び破滅を迎えるその日まで、きっと何も反省しない。どころか、何も考えることができない。徹底的に頭が悪い。私だってロクなものではないけれど、ここまでくだらなくもないつもりだ。

 なんとか軌道修正させるための努力を怠るわけにはいかない。だが、最後まで付き合うのは馬鹿だ。人間であろうとするなら、在日も日本人も、「日本」とはどこかで距離を置かねばならない局面が、いずれ訪れよう。こんな国が、社会がいつまでも存在していてはいけないのではないかとさえ、私は最近、考えるようになってしまっている。(斎藤貴男、ジャーナリスト)

[朝鮮新報 2003.11.4]