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関東大震災朝鮮人虐殺関連日弁連調査報告書(4)

 3 軍隊による中国人虐殺(省略)

 4 結論

 以上のとおり、軍隊によって朝鮮人および中国人が殺害された事実が認定できる。
 なお、これらの虐殺の状況について、資料第3の1には、虐殺が正当防衛にあたるものであるかのごとき記載が列挙されている。
 一例を挙げれば、資料第3の1の2例目には、「鮮人と思わるる者夜警青年団員に追跡せられた結果窮して抜刀し群衆に迫り危険甚しく歩哨之を制したるも肯せす已むを得す…刺突し…射殺」したと記載されている。いわれなく自警団に追跡され危険を感じた朝鮮人が、仮に抜刀して身構えたのだとしても、これを刺突した上射殺しなければならない急迫不正の侵害は認めがたい。
 また、同4例目には、「該鮮人は突然右物入より爆弾らしきものを取出し将に投擲せんとし危険極なかりしを以て自衛上已むを得す之を射殺せり」と記載されているが、投てきしようとしたという物体が爆弾であったとは記載されていないから、射殺後もそのような事実は確認できなかったのであろうと認められる。
 このように、あたかも正当防衛その他やむを得ずに行ったものであるかのように記載されている各殺害行為は、いずれも軍による朝鮮人殺害を正当化できるものではない。

 第4 自警団による虐殺

 1 事実

 関東大震災における朝鮮人虐殺の、相当な部分は民間人によるものであった。
 民間人による虐殺行為は、いわゆる自警団によるものであったことは、以下のとおり、様々な資料の示すとおりである。

(1)新聞報道
 当時の新聞報道記事によれば、東京日々新聞(大正12年10月21日)は、船橋町の虐殺について「鮮人の行方不明にぢれ気味であった船橋自警団初め八栄村自警団など約150名は…全部を殺害し」(資料第1の1、『現代史資料6』207頁)、「保土ヶ谷久保山方面で行われた青年会自警団等の殺人事件に関し詳細聴取」(同208頁)等を報道している。同様に、読売新聞(大正12年10月21日)は「子安の自警団員の多くは日本刀を帯いて自動車を走らせ…五十余の鮮人は死体となって鉄道路線に遺棄された」(同210頁)と報道し、国民新聞(大正12年10月12日)は「暴行自警団員及陰謀事件の犯人検挙」(同211頁)を報じるなど、当時の多数の新聞記事が自警団による朝鮮人殺害事件を報じている。

(2)刑事確定記録(省略)

(3)刑事裁判についての新聞報道(省略)

(4)自警団に関する自衛隊および警視庁の資料
 …
 警視庁警備部と陸上自衛隊東部方面総監部による資料でも、同様の記載がある。
 「9月16日の調査によれば市部に562、郡部に583団体が組織され、多い団体は110名、少ない団体30名であったが、逐次その数を増し、10月20日ごろには市部774、郡部810、合計1584団体の多数に上り、また1団の数も多いものは750名という大きな組織をもつものもあり、これがため統制も乱れ、過激粗暴の行動に出るものも少なくなかった。」(資料第4の8、警視庁警備部、陸上自衛隊東部方面総監部編『大震災対策研究資料』70頁)。

 「団員は各自刀剣、木刀、こん棒、竹やり、銃、とび口、くわ、玄能、かま、のこぎり等あらゆる凶器を携帯し、町村の要所および出入口に非常線を張り、通行人に対し、厳重な尋問を行い、朝鮮人の疑いあるものは警察署に同行し、あるいは迫害を加え、中には勢をたのみ暴行、りゃく奪、殺傷事件をひき起こすものもあり、また、団体加入を強要したり、寄付金を強要するなど、専横をきわめる団体も現れるにいたった。」(同書同頁)。

 「民衆は自警団を組織して朝鮮人に対して、猛烈な迫害を加え」た(同書67頁)。

 震災後の犯罪発生数については、「9月、10月に殺人犯が激増して漸次減少している9月中の殺人は、震災直後の9月1日から3日までに多発しており、これらの原因は、鮮人来襲に対する自警団の凶暴的行為がその最たるものであった。」(同書72頁)としている。

[朝鮮新報 2003.10.28]