関東大震災朝鮮人虐殺関連日弁連調査報告書(2) |
第3章 当委員会の判断 次の主文による勧告を日本政府に対して行うべきものと考える。 【主文】 第4章 上記判断に至った理由 申立人による人権救済の申立を受けて、人権擁護委員会の任命のもとに事件の経過と国の責任を調査した事件委員会は、国に対して前記のとおり勧告を出すべきとの結論にいたったので、調査の経緯、結論の基礎とした事実認定、その根拠についてここに記載する。 第1 関東大震災による罹災と戒厳令、虐殺の発生 1923年9月1日午前11時58分、東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城の1府、6県を大震災が襲った。火災もおこり死者99331人、行方不明43476人、家屋全壊128266戸、半壊126233戸、焼失447128戸に達した。 1923年9月2日、政府は、帝国憲法8条に定める緊急勅令によって戒厳令を宣告した。9月3日には、戒厳地境を東京府、神奈川県全域に拡大した。 第2 虐殺事件の背景となった戒厳宣告 1 関東大震災における戒厳宣告(省略) 関東大震災によって多数の火災が発生し、これによる多くの死傷者がでたことは間違いないが、そうであるとしても、なお、戒厳令を宣告して軍隊を出動させるべき必要があったかどうかは、疑問の余地なしとしない。そもそも戒厳令は、「戦時若クハ事変ニ際シ」という戦争、内乱状態を前提として、敵からの攻撃に対処するために、行政権等の執行を停止させ、「兵備ヲ以テ」軍に国民生活を統括させるものである。このような戒厳令を震災という自然災害事態に対して宣告すること自体、中央および地方の官憲の危機意識を過剰に募らせるものであった。 9月3日の関東戒厳司令官命令は、戒厳令にもとづく命令の施行の目的として、「不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」を挙げ(資料第2の2 関東戒厳司令官命令第一号前文、「関東大震災 政府陸海軍関係資料U巻陸軍関係史料」139頁)、不逞の挙を行うものを想定している。 また、戒厳令は戒厳司令部に対して、押収、検問所の設置、出入りの禁止、立ち入り検察、地境内退去など、災害時における対処としては著しく過大な権限を与えた(前同書143頁)。 これらは、大地震という自然災害に際しての救難、復旧などに通常必要な対応の水準を超えて、騒擾その他の犯罪行為を予防、鎮圧する治安行動的な対応を意味している。このことは中央及び地方の各官憲に、そのような治安行動が必要な事態が生じているという危機感を増幅させたと考えられる。 また、このように増幅された危機感と認識は、後述するとおり、行政の指揮命令系統を通じた自警の指示や、末端の巡査などの巡回等によって自警団などの民衆レベルにも浸透したものと考えられる。 [朝鮮新報 2003.10.1] |