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〈浮島丸事件日本政府の新資料発見〉 当初から賠償回避を方針に

今回、外務省から入手した厚生省(当時)の史料

 祖国解放直後の1945年8月24日、日本の植民地支配政策によって徴用された朝鮮人を帰還させるための浮島丸が舞鶴沖で爆沈した事件に関する新史料が発見された。史料は日本政府が50年2月28日、日本を占領していたGHQ(連合国最高司令官総司令部)に提出した報告書。当時、日本政府は人道的に対応すると公言しながら、真相究明はおろか被害者の遺骨収集すら行わなかったばかりか、GHQに対し、「朝鮮側」が「賠償要求を提起しても之を容認することは出来ない」との結論を出していたことが明らかになった。資料は朝鮮人強制連行真相調査団が発掘。29日に開かれる北南と海外同胞研究者による『浮島丸』事件の真相究明のためのピョンヤン討論会で発表する予定だ。(羅基哲記者)

公表しない厚生省

爆沈した浮島丸(1945年)

 浮島丸事件に関する日本政府の報告書はこれまで、厚生省第二復員局が53年12月に作成したとみられる「輸送船浮島丸に関する資料」が唯一のものだったが、賠償責任などについての日本政府の方針などは意図的に削除されていた。

 今回、発見された報告書は「特設運送艦浮島丸遭難事件」と記されている。第二復員局などが作成した。2000年12月、日本外務省発行の第16回外交記録公開資料「太平洋戦争終結による旧日本国籍人の保護引き揚げ関係雑件」全8巻にその目録が含まれていたが、内容は公開されておらず、同調査団が情報公開法に基づき、再三にわたって開示請求を行い、報告内容を入手した。

 原資料を保管している厚生労働省は植民地支配時代の重要な資料を多数保有しているが、ほとんどが未公開。今回は厚生省(当時)がGHQに資料を提出した経緯から、その一部が外務省の保管文書として発見された。

「不可抗力の災難」?

船内から見つかった犠牲者の遺骨(1954年)

 報告書は50年2月28日、第二復員局残務処理部長などからGHQあてに「浮島丸の遭難並び今後の処理に関する報告」として提出された。日本政府は処理方法について、それまでの交渉相手を朝鮮人聯盟から、「韓国使節」の推薦あるものまたは「民団」の責任者にすり替え、さらには賠償を要求してきても容認しないことを方針として打ち出した。「韓国使節」とは、「駐日韓国代表部大使」を指す。

 さらに、事件の性格を「不可抗力に起因する災難」、朝鮮人被害者は「旧海軍の好意に基づく便乗者」とわい曲している。

 つまりこれは、賠償問題を回避するため、米国に根回しするための報告書だったと判断できる。

裁判でも未提出

 一方、事件で犠牲となった南朝鮮在住の生存者や遺族計80人が日本政府に公式謝罪と損害賠償を求めた京都地裁(2001年8月)と大阪高裁(今年5月)の裁判では、日本政府はその責任が問われたにもかかわらず、これら一切の関連資料を提出していない。

 真相を闇に葬ろうとする日本政府の姿勢は昔も今も変わらない。

 同調査団の洪祥進事務局長は、「解放後、日本が真っ先に行ったのは、強制連行資料の隠蔽。次に、この事件に対する朝鮮人聯盟の執ような抗議と南北政府の賠償要求を恐れ、5年間放置した浮島丸を引き揚げることで、物証となる遺骨と船体が発見されるのを隠蔽しようとしたことで、これが日本政府の方針だった」と強調する。

[朝鮮新報 2003.9.27]