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〈関東大震災-朝鮮人虐殺から80年〉 京都で詩人尹東柱を偲ぶ会

 関東大震災80周年特別企画として8月30日、詩人尹東柱を偲ぶ会が京都府宇治市内で開かれた。植民地時代、日本の大学(立教、同志社)に留学し、治安維持法違反容疑で捕らえられ、日本敗戦の半年前に獄死した夭折の詩人尹東柱。鮮烈な民族愛とキリスト教信仰と心優しき童心とが溶け合った尹東柱の詩は、同胞ばかりでなく、民族や国境を越えて人々の心をとらえ続けてやまない。

 集いは天皇制国家に殺された尹東柱の足跡を、今の世界を震撼させる米国のイラク侵略と日本の軍国主義化への動き、東アジア情勢などと重ね合わせて考える機会となった。

 尹東柱は1917年12月、中国東北地方(旧満州の間島)で生まれた。ソウルの延禧専門学校(現延世大学)に学んだ後、42年渡日、同志社大学に在学中、母国語による詩作が治安維持法違反(独立運動)に当たるとして、翌年7月逮捕され、45年2月、福岡刑務所で獄死した。享年28歳。当時、福岡刑務所は九州大学医学部の生体実験と深く関わっており、尹東柱も「殺された」とする説が有力視されている。しかし、日本当局は未だに隠蔽しており、その死の真相は闇に葬られたままである。

 集いではまず、須田稔立命館大学名誉教授が挨拶し、「民族の誇り、同胞への愛深き詩人を殺す国家とは何だ」と厳しく日本の国家責任を追及しながら、「古代朝鮮から渡来した人々にその文化を学び、朝鮮通信使から測り知れぬ人間的叡智を教わりながら、他方で植民地時代、朝鮮半島植民地化、朝鮮人民の皇国臣民化、在日コリアンに対する侮蔑と差別、抑圧から脱却できずにいるこの国の愚かさを共に憤り、悲しみ、共に苦痛と希望を語り合おう」と語りかけた。

 家族や友人たちの手によって、尹東柱の最初の詩集「空と風と星と詩」は48年に発行された。それ以来、南北朝鮮はもとより日本語詩集も刊行され、親しまれてきた。とりわけ名高い詩が「序詩」。

 死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥辱なきことを、/葉あいにそよぐ風にも/わたしは心痛んだ。/星をうたう心で/生きとし生けるものをいとおしまねば/そしてわたしに与えられた道を/歩みゆかねば。/今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)

 これは高校の教科書「新編現代文」(筑摩書房)にも、詩人茨木のり子さんの名文によって紹介されている。茨木さんは尹東柱が「中身のよくわからない注射をくり返し打たれ」て息絶えたと述べ、「痛恨の思いなくしてこの詩人に触れることはできない」とその無念の死を惜しむ。さらに「二十代でなければ絶対に書けないその清冽な詩風は、若者をとらえるに十分な内容を持っている」と書き、「詩人には夭折の特権ともいうべきものがあって、若さや純潔をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をもひきつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ」と評している。

 尹東柱はなぜ殺されねばならなかったか。集いでは歴史小説「許浚」の訳者で梨花女子大、韓国外国語大教授を歴任した朴菖熙氏(70=ソウル在住)が「ハングルの運命と尹東柱の詩」と題して講演した。

 朴氏は1443年、世宗大王の最も偉大な業績として訓民正音即ちハングルが創製された歴史的意義について語りながら、一方で漢文事大主義に染まった両班文民官たちによってハングルが無視され、見下されてきた側面についても触れた。朝鮮王朝時代には仏教や儒教のハングル経典の刊行がごくわずかであったこと、19世紀初めになってやっと、東学党の抵抗運動などの綱領がハングルで書かれて「民衆の武器としてのハングルが広まり、生かされた」と指摘した。

 そして、19世紀半ばに近代化の動きと軌を一にする形でハングルが表舞台に登場するに至ったと指摘した。しかし、日本の朝鮮併合によってハングルは滅亡の危機に直面、38年には中学校での朝鮮語教育の廃止、39年の創氏改名、40年には朝鮮語の朝鮮日報、東亜日報が相次いで廃刊に追い込まれた。

 日本の朝鮮支配が強化されていく時流に抗って、朝鮮語で詩作を続ける尹東柱。朴氏は「のびゆく若木は新芽によって成長していく。朝鮮民族にとっての新芽はまさしく尹東柱であった。圧制下にある朝鮮の民衆や貧しい人々に寄り添い、詩作する尹東柱の姿は、ハングルの運命をかけて自らの生命をちぎりとる行為」だったと分析。そして、固有の言葉と文字を通じて、美しい故郷に思いを馳せた尹東柱の詩は「統一朝鮮という美しい価値と普遍性にも繋がっている」と語り、民族の統一が成就してこそ、言語の統一も成り、尹東柱の願いが叶うことになると述べた。

 講演の後、文筆家岡部伊都子さん(80)は「植民地時代、どれほど多くの朝鮮人が、労働力として日本に連行され、拘束され、殺されたことか。どんなに無念だったかと思う。当時生まれた者として私はずっと日本の悪を見つづけてきた。日本がしてきた無礼を何とかして正さねばならない。日本人も人間として復活しなければ。これからこの日本がまともな人間の世界になることを念じている」と感想を語った。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2003.9.12]