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〈関東大震災−朝鮮人虐殺から80年〉 関東各地で追悼集会などが行われる

 関東大震災時の朝鮮人虐殺から80年が過ぎ、関東各地で追悼集会などが行われた。

千葉県船橋市

 千葉県船橋市馬込霊園にある追悼碑「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊碑」は、千葉西部地域をはじめとする県下同胞らの思いを1つにして1947年、当時の船橋市本町に建立されたものだ。その後の63年、船橋市の協力のもと同霊園内に移動された。虐殺が日本政府によって行われた旨が碑文に明記されている唯一のもの。

 同地では毎年9月1日、「朝鮮人犠牲者追悼式」が行われてきた。80周年に際しては、虐殺の真相を幅広い同胞と日本市民に知らせ世論を喚起するための写真展示やビデオ上映、講演会と報告会などを行ったほか、同胞の代表団は日本政府が真相調査と謝罪、補償を行うよう県知事に要請した。

 75周年の98年には西部地域の同胞名義で、真相究明と謝罪を日本政府に求めた人権救済を日本弁護士連合会に申し立てた。日弁連ではその後、5年間にわたる調査の末、真相を調査し、その原因を明らかにするとともに政府が責任を認めて謝罪するよう小泉首相に勧告した。

 80周年に際して行われた追悼式で総聯千葉県本部の宋岩佑委員長は、「朝・日平壌宣言が誠実に履行されれば、虐殺された同胞らの怨念をはらすことができるだろう」と追悼の辞を述べながら、「日本政府が真相を明らかにし、謝罪するよう引き続き働きかけていく」と語った。

 弔辞を述べた「強制連行の真相を調査する千葉県調査団」の菅谷貢事務局長も、「虐殺は日本の朝鮮侵略思想、アジア蔑視政策が反映されたものだ。平壌宣言に基づいて日朝友好関係が築かれなければならない」と主張した。

 さらに、「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼調査実行委員会」の吉川清委員長は、「同じ歴史が繰り返されないよう努力しなければならない」と訴えた。

 同じく弔辞を述べた千葉初中の金鐘友くん(中級部3年)は、「いかに世代が代わろうとも、事件は代を継いで伝えていきたい」と語った。

 虐殺事件から80年、千葉で行われた追悼式は、責任の所在を回避しつづけてきた日本政府への責任を、朝・日の市民が手を取り合って追及していく必要性を改めて示すものとなった。(羅基哲記者)

埼玉

 関東大震災時、東京や県南部から避難したり連行されてきた朝鮮人の一団を民衆が襲い、240人の同胞が虐殺された埼玉・県北地域。熊谷市の熊谷寺大原墓地、本庄市の長峰墓地、上里町の安盛寺、寄居町の正樹院、児玉町の浄眼寺、大宮市の常泉寺に犠牲となった朝鮮人の追悼碑や供養塔が建てられている。

 1日、追悼式典が行われた熊谷、本庄の両市、上里町の3地域は、なかでもとくに虐殺の激しかった地域だ。本庄市では本庄警察署に群衆が押しかけ、トラックで運ばれてきた朝鮮人と警察に保護されていた朝鮮人計88人が虐殺された。

 追悼式典は近年、日本の行政、地元の総聯、民団合同で行われてきた。

 熊谷市内のメモリアル彩雲で追悼の辞を述べた富岡清熊谷市長は、「80年前に起きた関東大震災により、東京を中心に街が崩壊状態になった。大きな混乱のなか、避難してきた朝鮮人が本市においてもいわれのない流言飛語により、尊い命を奪われたことは誠に痛恨の極み」と述べながら、「私たちは暗い過去への厳粛な反省のうえにたち、再びこのような惨劇が起こらないように努力し、尊い命を奪われた同胞の方々の悲痛な思いを決して風化させてはならない」と決意を新たにしていた。

 また、安盛寺の追悼碑前で追悼の辞を述べた関根孝道上里町長は、「在日朝鮮人が犠牲となられたことは誠に遺憾だ。犠牲者の死を無にすることなく、このような一大不祥事を繰り返さないよう、民族間の友好と親善を求めていきたい」と語った。

 これらの地域を管轄する総聯埼玉北部支部の李明光委員長はこう語る。

 「本庄、上里では以前から行政による追悼式が行われていたが、熊谷では同胞たちの呼びかけにより95年から行われるようになった。また、団体別に行ってきた追悼式を北南共同宣言の発表以降、民団とも合同で行うようになった。地域住民と手を取り合ってこのような悲惨な事件を心に刻みながら、再発させないためにも日本政府に真相究明と謝罪を求めていきたい」と述べた。

 同地域をめぐるフィールドワーク(埼玉県平和運動センター他主催)に参加した吉長優太さん(日本大学芸術学部放送学科2年)は、「朝鮮人虐殺について日本の教科書ではほとんど触れられていないということを改めて実感し、とても残念に思う。このような悲惨な事件を2度と起こさないためにも、ドキュメンタリー映画を制作して若い世代に伝えていきたい」と語っていた。(李明花記者)

[朝鮮新報 2003.9.6]