〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待 |
はじめに 今回、拙著「関東大震災の朝鮮人虐殺−その国家責任と民衆責任−」(創史社刊、八月書館発売)を書く過程で今までの研究では意識されなかった問題に出会った。 その一つは日本の国家が虐殺した朝鮮人の遺体を隠し、朝鮮人に頑として引き渡さなかったことである。虐殺されたうえに遺体さえも取り戻せない一朝鮮人遺族の悲しみと怒りを報じた当時の新聞記事を拙著に収録できたが、こうした想いを抱いた朝鮮人遺族は何万人といたことだろう。しかしそうした想いや声は弾圧によって闇の中に80年も葬られていた。 もう一つの問題は朝鮮人女性に対する性的虐待、虐殺である。荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。それからひどくなった。四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。なかには女もいた。女は……ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた」(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ) これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。これは例外的な事件ではない。女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。しかも妊婦である。正視することができず、サッサと帰ってきた」と回想した。(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ) 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ) 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。なんという残酷さ、あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ) 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」ことを記した。(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ) 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ) 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。(山田昭次、立教大学名誉教授) [朝鮮新報 2003.8.27] |