〈関東大震災−朝鮮人虐殺から80年〉 なぜ大量虐殺が起きたのか |
関東大震災(1923年9月1日)朝鮮人虐殺から80年を迎えるにあたり、キーワードで史実を振り返ってみた。 関東大震災 1923年9月1日正午2分前に発生。マグニチュード7.9の大震災が関東一円を襲った。 東京市内(当時)は一瞬にして灰じんと帰し、人々は襲いくる余震と火災の恐怖、そして食べ物や水を求め大パニックに陥った。同時に、あっという間に火災が広がり、3万8000人が犠牲になった。 デマ、流言 震災時、日本の軍隊、警察、民衆が一体となって当時日本に住んでいた朝鮮人を虐殺するが、その発端となったのがデマ、流言。 1日午後4時頃から「朝鮮人が暴動を起こす」「放火した」「井戸に毒薬を投げた」などのデマが流れはじめた。 当時の内務大臣・水野錬太郎や警視総監・赤池濃らは「1日夜、市中を巡回し、2日の午前、午後にかけて東京、神奈川の各警察署ならびに警備隊をして朝鮮人『暴動』の流言を宣伝させるとともに、流言を真相として報告」させた(朝鮮大学校編「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」)。 そして、彼らは1日夜から2日午前にかけて朝鮮人「暴動」の電文を用意し、2日夜から3日の朝にかけて千葉船橋海軍送信所から全国の地方長官あてに打電させた(同)。 水野と赤池は、それぞれ朝鮮総督府の政務総監、警保局長を務めた人物で、当時は日本の植民地支配に抵抗しようとした朝鮮人、「不逞鮮人」を弾圧する側のトップであった。 デマ、流言は警察、軍隊の通信、各行政機関の通達、マスコミなどによって増幅され、民衆は理性を失いそれを信じた。 厳重取締 デマ、流言が広まると同時に、2日午後5時には警視総監が「暴動」に対する厳重取締命令を各署に発する。 埼玉県庁では2日の内務部長命令として朝鮮人来襲を各郡に伝え、これに備えるべき通告を発した。 「不逞鮮人」 日本の植民地支配に抵抗した朝鮮人を指し、当時の日本支配層が呼んだもの。朝鮮は1910年、「韓国併合条約」を日本に強要され締結、植民地となる。土地などの財産を奪われ、自分の国では生きていくことが難しくなった朝鮮人は、民族独立のための運動を各地で展開。19年3月1日には、200万人が参加する大規模な人民蜂起へと拡大、日本の植民地支配を根底から揺り動かした。 反日運動は高まり、参加者は「不逞鮮人」として監視の対象となった。日本政府がデマを流し、虐殺を計ったのも、独立運動の教訓から、朝鮮人に恐怖を植えつけるための「いけにえ」にする必要があったとされる。 自警団 デマ、流言にあおられた民衆は「恐怖」から自警団を結成し、軍と政府のひ護・容認の下に手に竹やりや日本刀などを持って“朝鮮人狩り”に暴走した。犠牲者は少なくとも6600人に上ったといわれる。 「10円50銭」 当時、朝鮮半島から来た朝鮮人は日本語の濁音をうまく発音することができず、これを「ちゅうえん、こちゅっせん」などと発音していた。自警団などは朝鮮人であるかを確認するため、わざわざ発言させ踏み絵にした。 民族蔑視 朝鮮人虐殺は日本市民に朝鮮、朝鮮人蔑視意識を植え付けるものとなった。事件後、「日本国民には『朝鮮人はわれわれより下等の民族だから征服された』という意識もつくった」(筑波書林「関東大震災と禍根」)。 そして38年からは国家総動員法の下、朝鮮人強制連行が始まる。その数は600万人にも上り、炭鉱やダム工事などに従事した数万人の朝鮮人が死亡。朝鮮人には「何をしても構わない」という雰囲気が関東大震災以降、作り上げられたといえる。当時の朝鮮人差別、蔑視意識は、いまだに一部に根強く残っており、朝鮮半島情勢が緊迫するたびに、朝鮮学校生徒に対する嫌がらせとして表れている。 追悼碑、墓碑 戦前、戦後、各地に建立される。朝鮮人と日本人合同、日本人単独で建立したものがある。戦後に建てられたものには、碑文に、「再びこのような過ちを繰り返さず、朝鮮との友好を願う」ことが刻まれたものも見られるようになった。 真相究明 朝鮮人、日本人など一部の研究者らによって調査が行われたが、全容は解明されていない。事件を引き起こした日本政府はいまだに、虐殺の事実認定すらしていない。 昨年9月に発表された朝・日「平壌宣言」では前文で、「不幸な過去を清算」し「関係を樹立」することを前文で確認し合ったが、6600人を超える朝鮮人虐殺問題もその課題のひとつとなる。 [朝鮮新報 2003.7.29] |