〈大学受験資格 国立大学から〉 米田俊彦・お茶の水大学教授 |
大学入学資格は、中等教育の内容と水準を満たす教育機関の卒業者すべてに等しく与えられることが望ましい。入学を認めるか否かは大学が個別に判断するのだから、資格そのものは緩やかなものであって何ら差し支えない。複数の尺度を恣意的に組み合わせて特定の種類の学校を排除するやり方は、行政権限の濫用と言われても仕方がない。 日本は子どもの権利条約を批准している。日本の社会に住むあらゆる子どもの権利を均しく保障することになっている。子どもの権利条約は民族や国籍の種類による差別的扱いを禁じているはずである。子どもの権利を奪うというのは、権利侵害の中でも最も悪質である。 そもそも民族学校を公教育制度から排除していることが問われなければならない。公教育制度と国民教育制度が混同され、学校は「日本人の学校」であり続けている。教育基本法「改正」論議をみてもわかる通り、公教育を通じて「国を愛する心」を育成しようという発想が根強く残存している。公教育制度が排他的な性格を強くもち続ける限り、学校は、同じく日本の社会で生活する「日本人」と「外国人」の相互理解を遮断する場にしかならない。中学校卒業、高校卒業、大学卒業の学歴がほしければ「日本人の学校」に行けと言わんばかりの日本の公教育は、歴史に残る差別制度である。 さらに、とりわけ朝鮮の人々に対して日本の国家権力と日本人が第二次世界大戦の敗戦までに何をしてきたかを考えれば、並の相互理解では済まされないことは明白である。しかし、日本が過去において何をしたのかを「日本人の学校」ではきちんと教えていない。そういう意味でも日本の公教育制度は深刻な問題を抱えている。 私の周囲(大学の同僚や研究者仲間)には、大学入学資格で差別していることを当然だと考えている人はいない。もちろんそれは、差別が当然だというタイプの人と私が交際していないことの結果に過ぎないのかもしれないが、国立大学の学長の八割が受験資格を認めたいと回答したと七月二日の『朝日新聞』が報じている。個人の資格で回答すればもっと多いのではないか。国立大学の教職員の多くは、これ以上差別に加担したくないという気持ちをもっているはずである。 ここ数年は、大学院で一応門戸が開かれ、法人化も迫ってきて、入学資格をめぐる差別はすぐにでも自然に解消されるのではないかと勝手に安心してしまっていた。その点の認識が甘く、誤っていたことを率直に認めなければならない。(おわり) [朝鮮新報 2003.7.5] |