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〈大学受験資格 国立大学から〉 川島真・北海道大学助教授

 3月2日に出された「民族学校出身者の受験資格を求める国立大教職員の声明」の呼びかけ人になりました。あまり「アピール」の呼びかけ人にはならないのですが、今回は別でした。それは、信頼できる友人からの依頼であったということもありますが、今回の措置があまりに不合理で、それが自分の居る国立大学で実施されることに強い違和感をもったからです。その違和感の根本は「不当な線引き」でした。日本の国立大学を受験するのに、アジア系外国人学校卒業生だけが大検を受ける必要があり、インターナショナル・スクール卒業生は不要という、線引き。また、私費外国人留学生受入や入試外国語科目などで急速に「門戸開放」を進めていながら、国内のアジア系外国人学校卒業生には「開放しない」という、線引き。そして日本側の学校との、線引き。多くの線引きが見え隠れしました。霞ヶ関には本件の「裏」があったのかもしれません。しかし、決定を下した側に上のような線引きや、それにまつわる価値観が無かったとは言えないでしょう。

 もう一つ。今年は「タマちゃん」に住民票が与えられたことにも驚きました。役所は「タマちゃん」への住民票発行が何を意味するか思いをめぐらさなかったのでしょうか。ある行為が、結果として、何を意味し、何に影響を与えるか、これは社会生活の中で大切なことだと思います。異なる価値観、文化、習慣が共存する社会を日本に築くことを考えるなら、「線引き」や自らの行為の「影響」について、「もっと敏感に」と思います。それから、SARS流行の際の台湾人医師のことも気になりました。当時、東アジアから帰国する日本人には十日間待機を義務付けながら、一方で台湾からの観光客を積極的に誘致し、ビザ発行時の厳しい確認はしていませんでした。こちらが積極的に危険地域になりつつあった台湾から呼んでおきながら、一方的に台湾人医師を「非常識」と罵ったこと、これもまた自分のした行為を相対化できていないと思われる例です。きっと、こうした問題はこれから星の数ほど起きるでしょう。しかし、問題解決の過程こそ大切です。数え切れないほどの問題を解決して、相手の存在に鈍感になるころ、共存への鍵が手に入るのかもしれません。

 実は、北海道大学ではアジア系外国人学校卒業生の受験資格について十分な議論がありません。この静かな大学に議論をおこすには、まずは大学の国際化が必要かもしれません。

[朝鮮新報 2003.7.3]