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〈危うい今日を超える視点〉 銃声なき殺りく

 米英軍が国際法を嘲笑しつつイラクで殺戮した民間人の数を集計しているウェブサイトがある。英国の学者たちの運営する「イラク・ボディ・カウント」だ。それによると6月18日までの死者数は最少5563人で、最多7236人。この数字は世界各国の報道を元にした、かろうじて補足し得たものにすぎない。イラクにおける無残な死の全貌は依然として闇に包まれている。こうした現実とともに、次の経緯もまたはっきりと見詰めなければならない。

 91年の湾岸戦争以降、米国のイニシアチブで展開された対イラク経済制裁では200万人から300万人のイラク住民が亡くなったと推定されているのである。韓国NGOのチョン・ウクシク氏はそれをさして「銃声のしない、静かでありながら残酷な戦争」と指摘する。この銃声なき殺戮(戦争)はけっして過去の出来事ではなかった。今日のいわゆる「戦争」終結後のイラクでも連綿として続き、さらに、朝鮮に対しても繰り広げられている。

 ラムズフェルド米国防長官は「朝鮮の人々の置かれている、食糧不足などの悲劇的な状況」を強調する。次に得々と「住民を救うための体制転覆論」を披露し、「日本や中国の朝鮮支援を断たなければならない」などと言う(同氏のメモや講演記録)。どうやら彼の思考システムは破綻しているようだ。経済封鎖をひときわ強化し支援を断てば何が起こるか。悲劇の終焉ではない。より大きな悲劇の開始。つまり静かなる大量殺戮の始動である。

 5月下旬の日米首脳会談で、周知のごとく小泉首相はこの幼稚で冷酷の極みとしか言いようのない米国論理を輪唱し、早速、外為法を利用した朝鮮への送金、貿易停止などを含む「圧力計画」を練り始めたが、同過程で、たとえば扇国土交通相は「日本をなめているのか」などと叫んで飽きない。加害者が被害者を装って残虐行為を正当化するのだ。

 それはブッシュ氏たちがアフガンにおいて、さらにイラクにおいてみせつけた手なれた偽装工作≠ナもあった。彼らが「イラク戦争」の大義として掲げたサダム・フセインの大量破壊兵器はでっちあげだった可能性がしだいに強まっている。もう少し過去へ遡ろう。たとえば昨年10月、ブッシュ氏たちは「北朝鮮の核問題」を発火させ、武力行使を前面に押し出した。が、これより以前≠ノ彼らは先制攻撃を公言していた。要するに「北朝鮮の核問題」は被害妄想のさらなる拡大作業。言い換えると彼らの戦争欲望を充たすための口実づくりだったと考えられるのである。

 しかし、ブッシュ氏は対朝鮮戦争を実行することができなかった。なぜか。03年1月6日のワシントンポストのマイケル・ドッブス記者がクリントン政権の高官だったジョセフ・S・ナイ氏のこんな指摘を伝えている。

 「北朝鮮は(敵の攻撃を)抑止している。問題なのは抑止されているのが私たち(米国)だということです」

 また、カーター大統領の安保担当補佐官をつとめたブレジンスキー氏はブッシュ氏たちの動きをこんなふうに揶揄する。

 「脅威の大きい者より脅威の小さい者を叩くほうが危険性が少なく、満足できる」

 そうしたコメントを踏まえてワシントンポストはブッシュ氏たちが「より弱い国々」をターゲットにしようとしているらしいと推測するのだが、とすれば、ブッシュ氏たちの荒廃した精神とともにマスコミの流布している「北朝鮮の瀬戸際外交」がいかにマト外れなのかが分かる。小国が超大国を「瀬戸際」でなく正面で迎え撃っている図が浮かぶからだ。「瀬戸際」はブッシュ氏たちの主観である。

 が、いずれにしろこのような対峙は小国を極度に疲弊させ、銃声なき、静かなる殺戮を容赦なく進行させる。(野田峯雄、ジャーナリスト)

[朝鮮新報 2003.6.26]