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歴史わい曲、謝罪せよ−在日本朝鮮社会科学者協会歴史部会、麻生発言と関連し声明発表

 麻生太郎自民党政調会長が5月31日、「朝鮮人創氏改名は、最初は当時の朝鮮人が望んだことだ」との趣旨の発言をしたことについて、在日本朝鮮社会科学者協会歴史部会は3日、「朝鮮植民地統治の歴史をわい曲する暴言の撤回、謝罪を要求する」とのつぎのような声明を発表した。

 「創氏改名」は日帝が「皇国臣民化」政策の一環として1939年11月、制令第19号「朝鮮民事令改正の件」という形態で公布したもので、翌年2月、制令20号「朝鮮人の氏名に関する件」として施行された。「創氏改名」は朝鮮式の姓を日本の家族制度である「氏(うじ)」に変え(創氏)、名前を日本式に作ること(改氏改名)で、朝鮮民族の自立性を根底から抹殺しようと企てたものである。

 「創氏改名」は朝鮮人民が希望したものではなかったということは、実施経過をみればわかることだ。2月11日の「紀元節」をきっかけに実行された日本式に姓を変える「創氏」の申告は、2月中に全戸数の0.36%、3カ月後の5月20日に至っても7.6%に過ぎない。それが申告の締め切り日の8月10日に80%になったのは、日帝が強要したからだった。日帝は国民精神総動員朝鮮連盟や学校教育を通して、また進学、就職、社会生活の差別などを通して、「創氏改名」を強制したのである。

 それだけではなく日帝は、朝鮮人民が日本式に姓を改めない場合、朝鮮固有の姓をそのまま「創氏」できると強要することによって、すべての人民の姓を日本式の「氏」に「創氏」した。日帝は日本式に姓を変えない朝鮮人を「非国民」「不逞鮮人」とし、日帝警察の監視対象にした。

 日帝は朝鮮の近代的な教育機関を弾圧し、自らの教育を強要した。日帝は愛国啓蒙運動の時期に、民族意識の高揚と国権回復を目標としていた私立学校を強制閉鎖し、1910年代には反日教育と近代教育の場として発展していた書堂も弾圧した。また1920年代には、朝鮮人民が自力で高等教育機関を設立、運営していくことを目的とする民立大学設立運動を弾圧し、朝鮮人の高等教育を許さなかった。日帝は朝鮮人民の自主的な教育機関を弾圧する一方、1911年に朝鮮教育令を公布、「教育勅語の趣旨に合うよう、忠良な国民を育成することを本意とする」としながら、「国語(日本語)」を柱にした日本式教育を強要した。日帝は「1面1校」を目標に普通学校を増設するとしたが、1936年の初等教育就学率はやっと25%にしかならなかった。1938年の第3次教育令では朝鮮語を「随意科目」とし、実質的に廃止した。そればかりか学校で朝鮮語の使用は禁止され、日本語の使用が強要された。

 1943年現在、朝鮮内にあるすべての学校の朝鮮人学生数は219万人、日本人学生数は14万人で比率は15対1であった。これを朝鮮人2583万人、日本人76万人の総人口数の比率34対1と対照すると、総人口数に対する学生数の比率にみる朝・日間の教育の格差は明白だ。

 麻生暴言は単純な無知から出たものでも、偶然出たものでもないようだ。彼は改憲右翼団体の中心にある日本会議と連携する日本会議国会議員懇談会会長を兼任し、侵略戦争を美化する「新しい教科書をつくる会」、首相の靖国参拝の推進に深く関係してきた。

 麻生政調会長の排他主義的な政治的姿勢は彼の家系環境と無関係ではない。彼の祖父は九州でも有数の規模を誇る麻生炭鉱の創始者であった。麻生炭鉱には1930年代初めにすでに朝鮮人労働者が就労しており、1944年まで約8000人を連行してきた。歴史の一時期、麻生炭鉱鉱業は朝鮮人の奴隷労働により利潤を得ていたのである。

 また彼の外祖父は吉田茂元首相である。吉田茂は第2次世界大戦後、米国と講和条約を結んだが、その時南朝鮮を講和条約に参加させてはならないと強請。朝鮮戦争に実質的に参戦、米・日安保条約に調印した当事者であった。

 光復前、日帝の朝鮮植民地統治と光復後の冷戦体制下で朝鮮分断に直接関係した家系の後継者である麻生太郎は「負の遺産」をあますところなく受け継ぎ、「負の歴史」をわい曲し正当化したのである。

[朝鮮新報 2003.6.9]