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〈大学受験資格 国立大学から〉 中野敏男・東京外国語大学教授

 新聞報道で、インターナショナルスクールには大学受験資格を新たに認め、朝鮮や中国などの民族学校には認めないという、文科省の方針を知ったとき、私は、その人権感覚と歴史感覚のあまりの欠如に絶句した。そもそも教育を受ける権利は、人権の最基底にあって、社会の自由と公正を守る基礎である。まして、植民地支配により日本での生活を余儀なくされている人々には、むしろ日本政府の責任で、真っ先に希望する形の教育を保証するべきだった。それなのに戦後の日本政府は、排外的で冷戦的な思考により、一貫してそれを抑圧してきた。国際化を言うなら、改められねばならないのは、まずはここからだ。

 教育の場にある子供たちの切実な要求からしても、文科省のこの方針はひどい。民族的誇りをもってこの日本社会で生きていく力を育成しようとする民族学校の出身者にとって、日本の大学に進学して勉強を続ける意欲や要求はとても切実であろう。これに対して、文科省は新たな差別の拡大で応じたのである。

 国立大学に勤める教員として私たちは、そんな差別的方針を認めたまま大学業務はできないと考えて、運動を開始した。報道があった後、ただちに国立大学の教員たちが連携して文科省方針に抗議するアピール文を作成し、3月11日に「民族学校出身者の受験資格を求める国立大教職員の声明」を発表。また、文科省を訪れて要請を行った。

 振り返れば、私が勤務する東京外国語大学でも、この受験資格問題について、まずは大学院、そして学部について議論が進められていた経緯がある。大学の特殊性ゆえに世界に広く門戸を開くという基本的な観点に立ち、その最重要な第一歩として、民族学校生徒の受験資格が検討されたのである。

 もっとも、現在、教育基本法や大学の法人化が国会で論議されているなか、この受験資格問題に個別の大学がバラバラに取り組むのは確かに困難な状況にある。しかし、パブリックコメントなど多くの人たちの意見が文科省の方針を凍結へと押し戻したように、大学の内外を問わず広く声があがることはとても重要だ。大学人としても、なんとかそれに呼応して、議論し行動しなければと思う。

 民族教育を始め多様な教育の形を保証することは、マイノリティーである人々にとって重要なだけでなく、この日本社会を自由で開かれたものにするためにも不可欠だ。この問題は、とても広く普遍的な意味を持っている。

[朝鮮新報 2003.6.9]