〈大学受験資格 国立大学から〉 山本泰・東京大学教授 |
国立大学は外国人学校出身者に対して門戸を閉ざしているが、学内で「おかしい」という問題提起が出てこないことが最大の問題だ。 そもそも日本の大学は均質志向。ひとつの試験を課して成績順に合格させ、同じような学生を集めている。学内に外国人学校出身者がいて、具体的な顔が見えれば「なぜ受験資格がないの?」ということにもなるが、最初から外国人学校卒業生を排除しているので受験資格問題の事実そのものが覆い隠されている。 そもそも、日本の学校は在日朝鮮人が日本で暮らすことになった日本の植民地化の歴史や制度的差別について教えないので、日本の学生は外国人学校出身者が苦しんでいる「事実」から遠ざかってしまう。事実を知る機会がないので、教員も学生も「おかしい」と思わない。これが一番の問題だと思う。 日本社会にさまざまな歴史、文化的背景を持つ外国人が増え続けているにも関わらず、国立大はそれを学校運営に反映させようという考えはなく、東大でも教授会レベルで本格的に議論されたことはない。社会のニーズから目をそらしている。 10年前までは恥ずかしながら私もこの問題について知らなかった。しかし、米留学時にマイノリティー研究のフィールドワークをした際、日本の研究者が日本のことをあまりにも知らないことに愕然とした。それから、ゼミで朝鮮学校の校長を呼んで話を聞いたり、大泉のブラジル人学校を訪ねたり、川崎市外国人市民代表者会議を傍聴に行き始めた。学生たちは、学校で学んだことのない事実を知って最初はびっくりするが、そこから考え、息の長い交流を続ける学生もいる。生身の人間と向き合うことが何よりも大事なのだ。 1999年から外国人学校出身者の国立大学大学院受験が可能になり(各大学院の個別審査)、朝鮮学校出身の学生が増えているが、国立大学における彼らの存在は「大学院がよくてなぜ学部はダメなの?」という声を大きくすることにつながると注目している。 近年、朝鮮学校が門戸を積極的に開放していることも外国人学校の理解を広げるうえで意義深いことだ。 公私立大の多くが外国人学校の受験資格を独自に認めているにも関わらず、国立大にはなぜそれができず、文部科学省の方針を踏襲しているのか。今こそ国立大は、文科省にどこまで縛られてどこまで自由なのかをはっきりさせるべきだと思う。来年度から実施される国立大の独立行政法人化を機に決断をすべきだ。 [朝鮮新報 2003.5.30] |