top_rogo.gif (16396 bytes)

ウリハッキョを地域に開かれた学校に−北九州初中級学校主オモニ会会長、韓鶴江さん

 その一言に深く考えさせられたと言う。

 「韓さん、朝鮮学校の権利をただ求めるだけではだめですよ。普通の人は朝鮮学校がどこにあるかも知らない。だから、外に向かって、まず、どんな学校か、アピールしなきゃ」

 北九州朝鮮初中級学校、幼稚班の校医(歯科)だった竹田医師からこう、背中を押されたのが10年前。「その時、本当にそうだと思った。まず、私たちが外にでなきゃ、相手に気持ちが伝わらないじゃないですか」。それから、「外に打って出る」精神で、地域の学校と触れ合いを持ち、互いの学校のバザーなどに出店するような交流を深めて行った。

 46歳。初、中級生2人の母。ハッキョとの関わりは10年前。幼稚班のオモニ会実行委員になってから、切れ目なく続き、2年前にはオモニ会会長に就任した。「今、たとえ明日食べるお金が100円しかなくても、そのお金を全部ハッキョに捧げます」と韓さん。

 北九州小倉から海老津に嫁いできたのは26歳の頃。優しい家族に恵まれて幸せな日々が過ぎていった。しかし、たった一つの不安にさいなまれた。1年過ぎて3年、5年、7年…。子供に恵まれなかったのだ。「実家の母が泣きながらある日、帰って来いと言うんです。家門の一人息子に跡継ぎが生まれなければ、あまりにも申しわけない」と。母の苦悩は娘の痛みであった。

 「夫に意を決して伝えたんです。母の言葉を。そうしたら、夫が子供ができなかったら、あきらめたらいい。2人で楽しくやっていこう」と。何の迷いもない答えだった。

 それからまもなく奇跡が起きた。2人は「神さまの贈りもの」のような女の子と男の子を相次いで授かった。

 韓さんは宝にも思う2人の子を迷うことなく幼稚班からウリハッキョに入れた。

 「私は中学まで日本学校に通いました。学校の先生が本当にいい人で、『北朝鮮はいい国だから、頑張れよ』と言ってくれる先生でした。露骨な差別もなかったし、今でも学校の同窓会に行くと、『あんたはひいきされとったなぁ』とみんなから冷やかされるほど」。

 しかし、それでも韓さんの頭には忘れ難い記憶が鮮やかに刻まれている。「朝高に編入した時のあのホッとした、心からリラックスした気分。何て幸せなんだろうと思いました。級友みんなが同胞という環境が、それまで感じたことのない安らぎをくれたのです」。

 卒業後、福岡初中幼稚班の先生を2年間務めた。「少ない財源の中から、学校と父母が力を合わせて、子供たちのために何でもやってあげようと頑張った日々です」と振り返った。

 無から有を生み出すために若い日に鍛えられた経験が、オモニ会会長として200数十人を束ねる今の仕事に生きている。

 市や県への助成金要請活動に行った時、韓さんは関係者にこう問いかけた。「日本の人たちは朝鮮学校の父母たちは、みんな北朝鮮から来たと思っているんですよ。学校で教えないから、在日の歴史も近代の朝鮮と日本の不幸な関係も知らない人たちが本当に増えています。あなたたちは私たちが過去ばかりにこだわると言うが、過去を知らないから、今のことがわからず、前に進まない。ぜひ一度学校に来て、本当の子供たちの姿を見てください」と。

 学校を思う韓さんはじめオモニたちの情熱が関係者の心を動かした。「こんなときだからこそ、前向きに」とオモニ会が取り組んだ公開授業。昨年の「9.17」から4日後に開かれた学校の催しには、福岡県や北九州市の関係者、近隣の日本学校の先生たち120人が駆けつけて、熱心に授業を見守った。ある教師は「みんなが授業に集中して、子供たちの顔が生き生きしている。本当に清々しい。いい時代の日本の学校の雰囲気のようだ」と印象を語った。

 韓さんはこんな秘話も話してくれた。李倉鍵校長が日本の学校の校長会に出席した時、ある校長から「朝鮮学校は民族の音楽や文化をきちんと教えていると聞きましたが、今度、お招きしますので民族音楽の演奏会を開いてもらえませんか」と。校長はまさか「わが校には、民族打楽器がありません」と言えず、二つ返事で引き受けたと言う。校長からその話を聞いた韓さんは、さっそくオモニ会に相談して、まず、楽器をそろえるためにバザーを開こうと呼びかけた。2年前の秋。「ムジゲフェスタ」と名づけられた大バザーに何と同胞や近隣の市民たち700人が集った。その収益金100万円と打楽器10台が学校に贈られた。サムルノリの衣装50着もそろえ、連日連夜の練習をして、日本学校の舞台で大喝采を受けたのは言うまでもない。

 「負けず嫌い」で「子供たちのためには火の中、水の中」にも飛び込む気持ちの北九州初中のオモニ会。その深い愛情に包まれて、今では打楽器100台が同校に完備された。

 バザーの時は、1カ月以上も毎日、学校に通うハードな日々。家事も仕事もこなしたうえで、みんなで集まる。「きつくても、楽しいですよ。愚痴を言わず、みんなで笑い合って疲れを吹き飛ばしています」。周りのオモニたちとの深いきずなが韓さんの笑顔の源泉だった。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2003.3.24]