〈コリアン学生学術フォーラム2003〉 統一コリア賞を受賞した金希玲さんの論文 |
11月23〜24日に行われた「コリアン学生学術フォーラム2003」(主催=同実行委員会)で統一コリア賞を受賞した金希玲さん(京都大学法学部4回生)の論文「『市民権』概念と外国人の権利保障」の全文は次のとおり。なお優秀論文に選ばれた論文をhttp://www.advance-k.net/forum_index.htmで見ることができる。 「市民権」概念と外国人の権利保障 T.はじめに 戦後今日に至るまでの在日朝鮮人の歩みは、「国民」−非「国民」という二元論的枠組みの下で、あらゆる迫害を受け、またあらゆる権利を奪われ続けてきた歴史であったといえる。在日朝鮮人を管理の対象と見なす「外国人登録令」に始まり、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」、「恩給法」における国籍条項等、法律上の不当な取り扱いだけでも枚挙に暇がない。国籍の有無が権利保障の指標とされ、日本国籍を有しないことを理由として差別的な取り扱いを受けることも、当然保障されるべき権利を制限されることも、法の名の下に正当化されてきたのである。 しかしながら今日の国際化の進展と外国人の定住化に伴い、「国民」−非「国民」の二元論的枠組みの下で外国人の権利を制限し続けていくことの問題性が国際的にも指摘されつつある。そしてそのような文脈の中で、国民のみを権利享有主体とする「市民権(citizenship)」とは別に、永住市民を権利享有主体とした「永住市民権(denizenship)」(以下「市民権」との混同を避けるため「デニズンシップ」と表記する)を模索する動きがある。以下この「デニズンシップ」概念に着目しつつ、今後の在日朝鮮人の権利保障の向かうべき方向性について論じたいと思う。 U.人権、市民権、永住市民権 1.従来の「市民権(citizenship)」概念 「市民権」の内容としては、言論、思想、信条の自由や職業選択の自由などを含む市民的権利と、選挙権等の政治的権利、福祉や教育を受ける権利を含む社会的権利の三つがある。他方、これらに伴う義務の要素としては、納税と保険料拠出、教育と兵役が挙げられている。また、「人権」が、「人間が人間であることのみに基づいて当然にもっている権利」iであり、前国家的、前憲法的権利であるのに対し、「市民権」は「ある共同社会の完全な構成員である人々に与えられたステイタス」iiであるとされる。したがって、「人権」が全ての人間の普遍的権利であって外国人にも当然に保障されるべきものであるのに対し、「市民権」の享有主体は、共同体の完全な構成員−即ち国家の完全な構成員である「国民」にのみ限定しうるとされるのが従来の在り方であった。つまり国民国家の閉じた体系においては「国籍に基づく権利と義務」ないしは「国民のもつ一連の権利」が「市民権」と呼ばれ、「市民権」は「国民」と分かちがたく結びついたものとして理解されてきたのである。 2.「市民権」概念の限界 この「市民権」と「国民」との結びつきは、外国人の権利保障を考える際に大きな障害になるものと言える。「市民権」が国籍に基づく国民の権利であるがゆえに、外国人に対してその権利を保障しないことは合理的な差別として許され、さらに「市民権」の一部についてその享有主体を外国人に拡大する際にも、あくまで「国民が現在享有している権利」をそのままの形あるいは縮小させた形で外国人にも付与するという形態をとることとなるためである。したがって外国人が参政権を与えられないのは当然のことであり、また外国人に「教育を受ける権利」を保障する際にも国民と同様の教育を施せば足りるのであって、外国人の母語教育などといった特別な施策は考慮の外におかれる。このように「市民権」と「国民」との分かちがたい結びつきを根拠として、外国人への権利付与に対しては極めて消極的な対応がとられてきた。 そして特に日本について言えば、同化政策の進捗状況に応じて権利付与を行ってきた歴史がある。つまり「日本国民」に近づくことを市民権付与の指標とし、同化政策を進める上で支障のない権利は状況に応じて付与され、またその際にも同化政策を阻害しない権利保障の形態(前記教育の例)がとられてきているのである。 3.「市民権」概念の国際的な変化 しかし国際化、外国人の定住化が進む中、主にヨーロッパにおいて「国民」とは切り離された新たな「市民権」の在り方を模索する動きが現在起こっている。その中でも特に注目すべきものとしてスウェーデンの政治学者トーマス・ハンマーが提唱した「デニズンシップ(永住市民権)」という概念を取り上げたいと思う。 今日たいていの国においては、外国籍の住民は、国家の構成員ではないけれども、増大する無数の権利を享有し、義務を履行しなければならない。とりわけヨーロッパでの内外人平等のための改革が進んだ1980年以降、安定した永住権が保障されて生活のあらゆる領域で平等な扱いを受けるようになった人々は、もはや通常の意味での「外国人」ではない。ハンマーはこのような「合法的な永住資格を有する外国籍市民である人々」iiiのために新しい用語が必要であるとして、それを「デニズン(denizen)」という語で表現している。そしてそのようなデニズンが享有する、国民が持つ完全な市民権ではないが、そのたいていの部分にあたる「権利と義務の広範な配列」を指して「デニズンシップ(denizenship)」と名づけている。ハンマー自身はこのような用語の設定を行なった上でデニズンシップの現状についての国際比較や、今後の向かうべき方向性についての彼なりの議論を行なっているのであるが、デニズン及びデニズンシップについての見解は未だ論者によって様々に分かれており、外国人の人権保障について明確な方向性を導き出すことのできるような確固たる「デニズンシップ理論」なるものは未だ定まってはいない。しかしこのような概念の創出自体が、外国人の権利保障に新たな可能性の地平を切り開くものであると考えられる。以下その点について述べたい。 4.「デニズンシップ」概念と在日朝鮮人の権利保障 「デニズンシップ」概念の一つの大きな意義として、これまでの「国民」−非「国民」の二元論的枠組みを離れ、永住外国人を新たな権利享有主体として国民や一般外国人から分離した点が挙げられる。これによって永住外国人を「国民」のなかに編入することによってではなく、「永住外国人」が「永住外国人」の資格に基づいて「市民権」を獲得していく可能性が開かれる。したがって、在日朝鮮人が自らのアイデンティティを捨て去り、自らを祖国から切り離して日本社会に同化することと引き換えにではなく、アイデンティティを固守しつつ祖国との結びつきを失わないまま、日本社会における「市民権」を獲得していく方途を模索していく上で、この「デニズンシップ」概念は大きな助けになるのではないかと考えられるのである。その根拠は「デニズンシップ」概念が「市民権」と「国民」との結びつきを断つものである点に求めることができる。 これまで繰り返し述べたように、従来の「市民権」概念は「国民」と分かちがたく結びついたものであり、「市民権」を外国人に付与することは「国民の権利」の享有主体をそのまま外国人にまで拡大することに過ぎなかった。つまり自国の国民に対してと同じ取り扱いをすることが求められるだけであり、前述のように民族教育の保障等のマイノリティ保護のための積極的な政策は考慮の外におかれていたのである。 それゆえ「市民権」の獲得を要求する運動体の側から見た場合にも、「市民権」獲得要求の一環としてマイノリティ保護のための施策を求めることは困難であり、それゆえ政治的権利(とりわけ参政権、公務就任権)のみが単独で要求されることが多かった。つまり従来の「市民権」概念に立脚した議論においては、参政権や公務就任権等の政治的権利の獲得とアイデンティティ保護のための環境整備とは切り離され、前者の要求は後者を置き去りにした形で進められてきたのである。また民族的な生を追及することこそを第一義とし、アイデンティティ保護のための環境整備をこそ重視するものにとっては、「市民権=国民の権利」である参政権、公務就任権等の政治的権利の獲得については消極的にならざるをえない状況があった。 しかし「デニズンシップ」概念を新たに導入することによって、従来の「市民権」概念の下でのそれとは異なる、新たな外国人の権利保障のあり方を模索することが可能となる。つまり日本人のためのあらゆる施策をそのまま外国人にも適用するのではなく、権利享有主体と権利内容との対応に基づいて−即ち[デニズン(永住市民)−デニズンシップ(永住市民権)]の対応に基づいて−永住市民に付与されるべき権利の内容を検討、再構築し、マイノリティ保護のための種々の施策への要求を市民権獲得要求の一環として行なっていくことができるのではないかと考えられるのである。従って、参政権や公務就任権の獲得要求とアイデンティティ保護のための環境整備の要求とを包摂しうる「デニズンシップ」概念を在日朝鮮人運動の基盤に据え、両者の要求を切り離せないものと見る視座に立って、市民的、社会的、政治的権利の全てについて包括的な権利要求を行なうことによって、現在の片手落ちの状況を打開することができるのではないだろうか。 V.モデルケース:スウェーデンにおける外国人政策 一つの理想的なモデルケースとして、「デニズンシップ」概念を形成してきた国であるスウェーデンを取り上げたい。スウェーデンの政策の特徴は、民族的、文化的少数派を多数派社会へ一方的に適応させることではなく、少数派と多数派との双方向的な協調を目指している点である。1975年以前までの支配的な潮流は、移民ができるだけ早く同化してスウェーデン人になることを目的としていたのであるが、1975年の「移民及び少数者の基本政策」を転換点として大きな変化を遂げた。そして「同化」に対立する語としての「統合」がその政策の基調におかれている。 1975年の国会で採択された基本政策において、統合政策の目標として掲げられたスローガンは「平等」、「選択の自由」、「協同」の3つである。「平等」は、移民が国民と同じ機会、権利、義務を持つことができることを意味し、国民と同じ条件での労働、住宅、社会福祉、教育を提供することがこの第一の目標で示されている。「選択の自由」は、スウェーデンに居住する言語的少数者が、社会制度を通じてどの程度までその出身国の文化的、言語的アイデンティティを保持し発展させるかを、移民自らが選択できるよう、機会を提供することを指す。「協同」は、移民と多数派住民との間の共同の実現を意味し、とりわけ政治生活に積極的に参加する十分な機会が与えられること、移民に独自の文化活動の機会が与えられることを指す。 スウェーデンにおいては、このような基本方針に基づいて、移民のための無償のスウェーデン語教育が行なわれていると共に、公立学校での母語教育を受ける権利も保障されている。さらに外国人の地方選挙権、被選挙権も認められており、公務就任権についても、国家の安全保障にかかわる公務員に関する例外を除き、国籍要件は課されていない。 このように、スウェーデンにおいては市民的権利、社会的権利、政治的権利のいずれについても、単に国民と同様に取り扱うと宣言するだけではなく、外国人市民に対する積極的な施策がとられている。これは先に見た日本社会の現状と好対照を成すものである。その点を踏まえた上で、以下日本社会における外国人の権利保障−目指すべき「デニズンシップ」−の在り方について、いくつかの提言を行ないたい。 W.保障されるべきデニズンシップ 〜日本社会への提言〜 1. 政治的権利について:参政権、公務就任権 今日の日本社会を見るに、参政権は地方、国政共に認められていないのが現状である。公務就任権については、国籍条項の緩和傾向が見られるものの、未だ「当然の法理」を理由として外国人が排除されている職種も少なくない。かつては外国人に対してはこれらの権利は認められないのが国際的な潮流であったが、それが変化しつつある今日、参政権、公務就任権の両者について外国人にもその門戸を開く必要があると考える。 参政権否定説の主な根拠としては、憲法解釈の観点から「国民主権原理」を挙げるもの、そして立法政策の観点からの、「母国の政治に参加すべき」との意見や、「帰化による参政権取得が本筋」との主張が挙げられる。しかし、国民主権原理は本来天皇主権の対立概念であり、これを以って主権を国民が独占すべきとの結論を当然に導きうるものではない。また、国民主権原理の明文規定を持つスウェーデンにおいて外国人参政権が認められていることからも、外国人の参政権を認めるか否かは、「国民主権原理」からの帰結というよりは、その国におけるナショナリズムの強さの問題であると言えよう。また「母国の政治に参加すべき」との意見に対しては、治者と被治者の一致の観点から見れば、地方参政権は母国においてよりもむしろ居住国においてこそ認められるべき性質のものとも見ることができる。また、「帰化による参政権取得が本筋」との見解については、民族性の保持と国籍取得とが両立しない状況下においてこのような主張はそもそも失当である。 、また公務就任権否定説の根拠としては、国際的な傾向、国際協調主義、国民主権原理を背景とした「当然の法理」が挙げられる。しかし、地方参政権が外国人にも認められつつあるのが今日の新たな国際的傾向であり、国際協調主義をとるのであればむしろこの方向性に従わねばならないだろう。また、国民主権については上記の参政権についてと同様のことが言え、また天皇主権の明治憲法下においても「当然の事理」として外国人の公務就任権は否定されていたことからも「国民主権原理」との関連付けは妥当性を欠くと言える。 以上の理由により、「国民主権」の名による「国民」民主主義を解体し、治者と被治者の一致という民主主義の本義に即した方向の改革が必要であると考える。 2.市民的、社会的権利について:民族教育の保障と差別禁止法の制定 しかしながら、自由権規約、社会権規約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約等、日本が批准している種々の国際人権条約の要請にもかかわらず、日本のマイノリティ政策は不徹底であり、各条約の人権委員会から種々の勧告を受けているにもかかわらず改善の傾向はない。以下特に2点を挙げて述べる。 日本は1995年に人種差別撤廃条約に加入しているが、条約内容の実現のための特別な予算も組まれておらず、また差別禁止法等の具体的な立法政策もとられていない。そしてその一方では朝鮮学校の生徒に対する暴力行為や政治家による差別的発言等、人種的暴力は温存されている。これを受けて2001年に、人種差別撤廃委員会は過去5年における日本における条約実施状況について最終見解を採択し、その中で日本が憲法14条以外に同条約に関連する法律の規定が存在しないことに対する懸念を表明した上で、特に同条約の4条(人種的優越主義に基づく差別と扇動の禁止)及び5条(法律の前の平等、権利享有の無差別)と一致した、人種差別を非合法化する特別な立法が必要である旨を勧告しているiv。また社会権規約委員会からも「差別禁止立法を強化するよう、強く勧告する」vとの表明がなされている。 また、子どもの権利条約についても、29条c項において「児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観ならびに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」が教育の目的として規定されているにも関わらず、これに即する教育が現在の日本において為されているとは言い難い。また日本政府は在日朝鮮人をマイノリティとして認定しておらず、そのためにマイノリティである在日朝鮮人の子供たちのための教育が保障されていないことに対しては自由権規約、社会権規約、子どもの権利条約、人種差別撤廃条約の全ての委員会から勧告を受けており、朝鮮学校を学校として承認していないことに対する強い懸念も表明されているvi。 日本政府はこのような国際条約による要請や国際社会からの勧告を真摯に受け止め、そのための適切な立法と法改正を行なわなければならない。外国人の権利はもはや国家の裁量によって自由に扱いうるものではなく、国際的な要請となりつつある。従ってこのような文脈から見ても、差別禁止立法の策定と民族教育の保障は、早急になされなければならない。つまり従来の外国人の排除並びに同化の促進を主幹とする政策を改め、新たな「デニズンシップ」の構築と、永住外国人に限らず日本に滞在若しくは居住する全ての外国人を視野に入れた適切な対策が求められていると言えるのである。 X.最後に ここまで「市民権」概念及び「デニズンシップ」概念と関連付けつつ、在日朝鮮人の人権保障のあり方について考察してきた。ここまでの議論を踏まえ、以下のことを結論としたいと思う。従来のように永住外国人を「国民」の枠の中に繰り入れ、「国民の権利」を外国人に付与していく「国民」民主主義的権利拡大は、今日既に限界を迎えている。したがって、今後は永住外国人を権利享有主体として明確化し、その主体に即して権利の内容自体を再構築していく、民主主義の本義に沿った権利拡大を目指していかなければならない。在日朝鮮人が民族性と権利との二者択一を迫られるのではなく、両者を共に手にして生き生きと生きることのできる社会を目指して、今後も継続的に運動を展開していきたい。 i 宮沢俊義『憲法U』(有斐閣、1974) 〈主要参考文献〉 トーマス・ハンマー『永住市民と国民国家』(明石書店、1999) [朝鮮新報 2003.11.29] |