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〈関東大震災−朝鮮人虐殺から80年〉 留学生かくまった2人の日本人

 私のアボジは日本の植民地時代に農地を奪われ、日本に流浪してきた慶尚道出身の貧農の1人であった。渡日したアボジにとって最も大きな衝撃は関東大震災とその時に生じた朝鮮人虐殺事件だったという。アボジは命からがら東京を脱出して福島県の奥深い鉱山に身を潜め、3年間恐ろしくて外出もできなかったという。幼い頃、アボジから聞かされたその話は今でも忘れることができない。

 そして、それから80年、私はこの震災時での朝鮮人虐殺事件という異常な事態に際して、身をもって朝鮮人留学生をかばってくれた2人の著名な日本の人士がいたことを、しかもその2人は私が1年間学んだ旧制第二高等学校の半世紀前の先輩であることを今になって知ったので、それについて述べたい。

 はじめに、その1人は大正デモクラシーの旗手であり、朝鮮人の最良の友人として知られている吉野作造博士である。博士は宮城県古川市の生まれで、1900年に二高1部法科を卒業した。現在、古川市には「吉野作造記念館」があり、博士の業績や著作が展示、紹介されている。

 3.1独立運動をはじめとする朝鮮独立運動を一貫して支援してくれた博士は、関東大震災時、身をもって朝鮮人留学生を自宅にかくまい、筆をもっては朝鮮人虐殺を糾弾し、あやうく大杉栄氏同様陸軍の暗殺の手にかかろうとした人物でもある。詳しい内容については松尾尊兌氏「吉野作造と朝鮮」(人文学報二十五号)に紹介されている。

 もう1人は、近代日本の独創的思想家として知られる江渡狄嶺(幸三郎)先生である。江渡先生は青森県三戸郡五戸村で生まれ、1901年に二高1部法科を卒業した。先生は東大生時代に「朝鮮半島論」を発表し、日本の輿論を圧倒していた朝鮮領有論に対して朝鮮永久中立論を主張した。

 その後、先生は関東大震災時、3人の朝鮮人留学生を自宅に3カ月もかくまい過ごした。そのうちの2人は朝鮮解放後、東亜日報の主筆を歴任、「コリア評論」を主宰して朝鮮中立化運動を行った金三奎氏とその兄であった。詳しい内容は琴秉洞氏の著書『日本の朝鮮侵略思想』(朝鮮新報社)に紹介されている。

 また吉野博士と江渡先生がかくまったおかげで窮地を脱した留学生のうち1人は、後に朝鮮人虐殺事件の調査を朝鮮人自らの立場で行い、報告を記している。

 ところであの時代に吉野博士や江渡先生のように日本の侵略主義、帝国主義を批判し、関東大震災での朝鮮人虐殺事件の不当性を糾弾、身をもって朝鮮人留学生をかばったことは治安維持法をはじめ法律違反となるやも知れない、並大抵でない本当に命がけの勇気のいることであったと思う。心からの感動を禁じえない。

 関東大震災から80年、21世紀3年目の今日、朝鮮と在日同胞を巡る状況はすさまじいものがある。

 「北朝鮮憎悪とナショナルな義憤」を叫び書き立てる、日本ネオコンの台頭と報道メデイアの氾濫、そして陰湿な民族排外主義と差別が在日同胞たちを取り囲んでいる。これは「万景峰92」号の新潟寄港問題でその極に達した感じがする。朝鮮への制裁策として、朝鮮に自由に行き来できる在日同胞が日本に戻れないようにしようという法案まで、一部国会議員の間で検討されているという(「アエラ」6月16日号)。

 とくに差別が歴然として残ることにどうしても我慢できないことは、朝鮮学校の卒業生に対する日本の大学の受験資格問題で、文部科学省が外国人学校をわざわざ2つに分けて、朝鮮学校の卒業生には学校単位でなく個別審査にするとしたこと、つまり「こんな回りくどい方法をとったのは文科省が対北朝鮮強硬派の国会議員らの圧力をかわそうとしたからだろう」(朝日新聞8月10日号社説)。こんな姑息な手法が採られているのである。

 関東大震災時をほうふつさせる今日の非正常的な状況を吉野、江渡先生が見られたらどう思うことだろうか…。私は、日本人の朝鮮、中国はじめ東アジア諸民族に対する考え方が1世紀前の日露戦争時期と半世紀前の日本の敗戦によってもほとんど変わっていないことと、また他民族の痛みを理解できない自己の日本民族だけよければ、よその民族はどうでもいいというがごとき民族エゴイズムが残っていることを、吉野、江渡先生は痛烈に叱っているのではないかとの思いを馳せている。(申在均、在日本朝鮮人科学技術協会常任顧問)

[朝鮮新報 2003.9.1]