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日朝交流の現場から−「何かをしたい」という気持ち

 KOREAこどもキャンペーンは、96年に米60トンの支援を集め「万景峰92」号で東海岸まで運び、通川、安辺、高城郡で配ったのが始まりである。それから7年、ささやかながら困難な情況にいる朝鮮の子どもたちを支援し、朝鮮の人たちのために「何かをしたい」という日本の市民の気持ちを現地へ伝えている。

 昨年10月末には、主に暖房用として第2機目の太陽光発電機をテガン協同農場の託児所の屋根に設置した。設置を決めてから1年以上かかったが、何とか2年目の冬を迎える前に約束を果たすことができた。食糧などの支援とは違って、太陽光発電機の設置では多くの協働作業が必要である。作業のために3日間農場へ通い、修理班(農場で電気関係の仕事を受け持っている)の人たちとの協働によって完成させた。

 半日がかりの準備の後、修理班の人たちと一緒に屋根にのぼり太陽光パネルを設置した。日本人は屋根に上がってもへっぴり腰であまり役に立っているようには見えなかったが、修理班の人はとても軽やかで、頼もしかった。

 下から見ているだけの私に、農場の委員長が「屋根に上がらないと食事がでませんよ」と笑いかけた。お昼はお弁当を持参したが、農場で取れたものを使った料理を沢山いただいた。蜂蜜、味噌、サツマイモ、鶏肉の炒め物、煮魚、最近できたビニールハウスで採れたきゅうりなどのほか、新米もご馳走になった。どれもとてもおいしく、和やかな雰囲気の昼食であったが、委員長をはじめ託児所の先生、修理班の人たちなど農場の関係者にだけ新米のご飯がおかれてないのを見て「はっ」とした。ありがたく頂くほかはなかった。

 何度も訪問を重ねるうちに、託児所の先生たちの表情も和んできて、子どもたちも自然とそばによってくるようになった。床に座ると子どもたちが私のひざに乗ったまま離れない。はじめは、持参したお菓子や支援物資をその場でこどもたちに食べさせて欲しいと思ったが、なかなか実現できなかった。それが今では、こちらが頼まなくても、先生方の方から「子どもたちに食べさせましょうか?」と言ってくれるようになった。農場を歩き回っていると、通りがかった民家の人たちが微笑みながら手を振ってくれたり、気軽に写真をとらせてくれたりするようになった。日本に戻ってから「使える」写真が欲しいと思っていた頃には決して撮れなかった、子どもたちのかわいい表情の写真がどんどん増えていった。

 朝鮮の子どもたちへの支援を続けているおかげで、現地の人たち、在日朝鮮人の人たちと多くの出会いがあり、たくさんのことを学んだ。お互いを認め合い、相手の立場、気持ちを察しながら率直な話し合いを重ね、信頼関係を積み重ねていくことの大切さである。かつて植民地支配をし、戦後60年近くたった今も正常な関係に改善できていない日本からの支援である。マイナスからの出発であるが、こちらの誠意には応えてくれる人たちである。

 昨年10月末の訪朝で会った人たちが、みな少なからず「日朝平壌宣言」に言及し、今後の関係改善に何らかの期待を寄せていたのを思い出す。現在の日本の状況には危機感を覚えるが、今まで出会った人たちの顔を思い浮かべながら、これからも朝鮮の子どもたちへの支援を通じて、日本と朝鮮の人々の相互理解、友好交流のために努力していきたい。(筒井由紀子、KOREAこどもキャンペーン事務局長)

[朝鮮新報 2003.7.8]