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各地の同胞が語る「私とサークル」−川崎オモニバレーボール部(神奈川)

 1998年10月のある日、川崎朝鮮初中級学校の当時初級部4年生だった長男が1枚の通知書を持って学校から帰ってきました。「川崎桜本地区4校PTA交流会のお知らせ」−今にして思えばこの1枚の通知から私の「ママさんバレーライフ」が始まることになるのです。

ボール、ネットもなく

 その内容は、ウリハッキョと近隣の日本学校のPTAが親ぼくを図るため、一緒にスポーツを楽しもうというものでした。父親はソフトボール、母親はバレーボールとありました。「バレーか…ウン十年ぶりにやってみようかな」、と当時オモニ会の役員をしていたことも手伝って、軽い気持ちで参加を決めました。

 交流会当日、思いっきり「軽装」のウリハッキョオモニたちに対して、ジャージ姿にサポーターで決めている日本学校のお母さまたち…(あとで知ることになるのですが、日本学校はPTAごとに、また町内会ごとにもバレー部があって、すそ野が本当に広いんです)。親ぼくが目的ですからそれなりに楽しかったのですが、やはり負けるというのは悔しいものでした。

 そんな様子をみていた女性同盟川崎の委員長から「川崎でもバレー部を作ってみない? 昔は強かったのよ」と励まされ、半年後に「川崎オモニバレー部」が結成されたのです。ボールもネットもないゼロからのスタートで、まさに山あり谷あり、涙あり笑いありの日々でした。

広がる交流

 でも継続は力です。3年間の努力が実り、昨年6月、第17回オモニ中央バレーボール大会で2部優勝を飾ることができたのです。2部とはいえ、決勝のコートに立つのはすごく誇らしい気持ちでした。そして粘りに粘って優勝を決めた時、もう理屈じゃなく全員泣いていました。心地よい涙もあるんですね。こんなに熱くなれるなんて、バレーをしていなければ決して味わえなかったことでしょう。

 もうひとつバレーで得たもの、それは大切な仲間です。知らなかった者同士が毎週毎週顔を合わせ、プレーをするなかで、徐々にわかり合い、認め合い、カバーし合い、一緒にいて心底楽しい…。この年になってそんな関係が築けることの幸せをかみしめています。

 バレーを通じて近隣のママさんチームや各方面での交流も広がりました。今年の3月、「川崎コリア」のチーム名で地区大会に出場、初優勝も飾りました。振り返れば本当にいろんなことがありましたが、今は肩の力も抜けて、プレーは真剣に、でも人とは楽しく、そしてながーく続けていけたら、と思っています。そして何よりいつも応援してくれて、笑顔で練習や試合に送り出してくれた夫と子どもたちにこの場を借りて心から感謝! です。(金輝子、主婦)

[朝鮮新報 2003.7.3]