〈心の目〉−聴こえない世界に触れ |
職業に貴賎はない、願わくは人のためになる職業を生業にする人間になってほしいと子どもに言ったことがあります。 幼いときは、親の権限で大体が解決できたしつけの問題も、諭す親の言葉と行動が一致しない時、成長した子どもたちが大人のずるさを見透かすような視線を投げかけます。根気がないのを自他共に認める私もこの辺で一揆奮発、親の背を見て育てといわんばかりに、手話を通じて社会活動に関わることにしました。行く行くは手話通訳士の資格を取り、在日の聴覚障害者の方のお手伝いをしたいと考えたからです。区の手話講習会に飛び込み足掛け2年、簡単なコミュニケーションは取れるようになりました。 手話の学習は単なる聴覚障害者とのコミュニケーションのみならず、彼らの歩んできた歴史を知り理解することがもっとも大事なことでした。 私には疑問だらけでした。寝坊すけの私は目覚ましがなければ安心して寝つけません。彼らは朝どうやって起きるのだろう? 赤ちゃんの泣き声、来客のベルの音、電話、水漏れの音、学校の保護者会、病院の診察は? 災害時の情報は?―。聴こえるということを当たり前に享受されている私は、手話学習を通じて聴こえない人の生活を考える機会に恵まれました。 今は社会全体がだいぶ障害者に優しくなったようです。 友人たちの若い頃は在日1世さながらの差別を受けていたそうです。特にろう学校では聴覚障害者のコミュニケーション方法である手話の使用を厳禁し、障害をマイナス評価する社会では健常者に少しでも近づけるよう、口話(口をゆっくり開けて話す)教育を強要されたそうです。音を耳で聞いたことのないろう者の多くにとっては、口話や読口(相手の口の動きで読み取る)は水にもぐった状態で相手の話を理解するくらい難しいと聞きました。 口話法で教育を受ければろう児が発声を覚えて「正常化」し、自立した社会生活ができると考えられていたため、多くのろう者たちは能力に恵まれながらも口頭による講義がわからず、十分な国語力や学力を備えることができませんでした。就職にも多大な影響を与え、職場での指示も口頭でされたため理解できず無能扱いをされる人もいたそうです。 差別と苦労の中で育ってきた友人たちですが、私が出会ったろう者はみな実に多才です。 自分自身の勉強から始まり、聴覚障害者の待遇改善運動や活動にいそしみ、海外を含めた旅行、趣味に夢中でお酒を愛し、おしゃべりでひたすら明るい人々です。ある友人は、お孫さんもいる年齢ですが、ヘルパーの資格を取得しました。聴覚障害者の介護がしたいからと、走り回っている。その姿は尊敬に値します。 一般社会では差別の自覚を持たずに障害者を特別視することもあります。耳が聞こえないということがどのようなものかわからず、例えば子どものたてる物音が聴こえないため叱れなかったことを非常識に思ってしまうなど、自分が経験しなかったことによって相手を思いやれず、それが差別につながってしまう場合もありうるのです。 年に数回、手話を通じて出会った仲間たちがわが家に集まります。話が弾み、若い時の恋愛話まで飛び出す始末、毎回おなかがよじれるほど笑います。 先日、この友人たちとチョゴリを着て写真を撮る約束をしました。人種も国境もない自由な魂を持つ彼女たちと、近い将来朝鮮半島を旅し、かの地のろう者と思う存分交流できたらなと願いつつも、いつになったら流暢な手話が駆使できるのやら。道のりは遠そうですが、細く長く手話を学んでいきたいと思っています。(朴貞秀、東京都北区在住)(おわり) [朝鮮新報 2003.7.1] |