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日朝交流の現場から−日本人の主体的な取り組みを

 「ムジゲの会」発足のきっかけは、やはり朴龍哲氏の(大分県)日田帰省でしょう。それまでにも在日朝鮮人の民族教育に関する、われわれ日田在住教員の取り組みは行われてきました。ただし、細々と、個別的=孤立的に。

 95年に朴龍哲氏が京都の朝鮮学校を辞めて日田に帰ってきたことにより、彼がわれわれと同じ教員であったこと、また、年齢的にもわれわれに近いこともあって、すぐに彼を囲む大きな輪ができました。

 その中で、自分たちの勤務する学校で行われる人権または平和講演会の講師として朴龍哲氏を呼び始めました。しかし、これでは私たち日田に住む日本人にとって他人頼みの取り組みに過ぎません。そこで、自分たちの主体的な取り組みとして何ができるのだろうと考えるようになりました。そして生まれたのが「ムジゲの会」(96年発足)です。

 会の取り組みとしてまずは、日田市内で講演会を開いたり、隣の福岡県から九州朝鮮歌舞団を呼び、民族文化の紹介として歌、踊り、演奏会も開催しました。

 しかし、こういった取り組みを続けながら、教員であるわれわれが、自分の学校にいる在日朝鮮人生徒には声すらかけることができないのが現実でした。

 そこで、97年にムジゲの会として日田・玖珠地区に住む在日朝鮮人児童、生徒に働きかけ、ハギハッキョ(夏期学校)をやってみることにしました。自分が勤務する学校ですら声をかけることができなかった子どもたちに、家庭訪問をして少しずつ声をかけ、参加を断られた家庭も何軒かありましたが、十数名の生徒を集め、夏期学校を実施しました。

 講師は第2回からは福岡朝鮮初中級学校に依頼し、派遣していただきました。この取り組みによって、われわれ日田・玖珠の日本学校教員と福岡の朝鮮学校教員との交流が始まり、子どもたちだけでなく、私たち大人にとっても意義深い取り組みとなりました。

 結成の勢いで、日田ムジゲの会の発想も段々大胆になって(図に乗って?)ゆきます。

 日田市では5月の20日前後の土曜、日曜に川開き観光祭という大きな祭があります。その2日間で日田市内を踊りながら練り歩く芸能隊や、西日本一とうたわれる花火など多くの催しものが行われるのです。この芸能隊に朝鮮の民族舞踊で参加しようではないか、ということになりました(いつも「ムジゲ」ではこういう決断は夜飲んでいるときに行われます)。朝鮮の音楽と踊りに魅了されたと言っても過言ではありません。

 初めて日田市民全体に向けて、しかも、日田市の年間最大とも言われる観光客に対して、われわれの取り組みを披露することになるので大きな不安もありました。しかし、いざやってみると、多くの沿道の観客の声援や活動を支える多くの仲間たちの参加によって大きなエネルギーをもらうことができました。「沿道の観客」も「仲間」になりました。即ち教員以外の「仲間」も増えました。

 その後は、平壌訪問団の結成(99年)や、サッカー交流(福岡県内朝鮮学校と日田・玖珠の小学校チームで99年より)、日田市内のある中学校でのチャンゴサークルの開始、日田市人権情報センターを拠点に毎月行われる民族学級の取り組み(日田市から補助金をもらっている)など、さまざまな活動に取り組んできました。

 「ムジゲ」の活動による、自分にとっての一番の変化は何か、と言われると、「朝鮮ということが日常の話題になってきた」ということでしょうか。学校で交わす生徒との日常会話の中でも他の話題と同じように話ができる、このことが生徒たちにも自然な日本人と朝鮮人との関係を伝えていくことになっているのだと信じています。(河崎豊次、大分日田高校教員)

[朝鮮新報 2003.4.28]