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安易な方向に流されない

 出版、報道の仕事に就いた当初、インターネットはもちろんなく、ワープロもファクスも一般に普及していなかった。文選がひとつひとつ活字を拾い版を組んでいた時代だ。原稿の受け取りも、関東地域であれば毎回、直接訪ねていってありがたく頂戴していた。

 ずいぶんと便利な時代になったものだが、さて、それで仕事の内容が改善されたであろうかと省みずにはおれない。もっとも反省させられるのは、何事も安易な方向に流されることだ。原稿を依頼し受け取り出版物として出す過程で、ひどいときになると、筆者と一度も顔を合わせないということもある。

 日本の新聞社の人との会話でこういう話を聞いた。新聞のページは昔に比べてずいぶんと増えたにもかかわらず、じっくりと腰を据えた記事を逆に書けなくなってきた。昔は1ページをつぶしてルポなども頻繁に掲載していた。しかし、いまは情報のつぎはぎのような紙面になっている。

 日本の新聞の紙面の増加と、それに反比例するかのような記事の矮小化の原因は、広告をひとつでも多く取ろうとする商業主義プラス「技術」の発展による情報の肥大化、そして先に指摘した安易な方向へ流されている点にあるのではないだろうか。

 9月17日の朝・日平壌宣言発表から数カ月、日本のマスコミは「拉致問題」から「核問題」と、朝鮮バッシング報道一色に染められた感があった。その原因を、「悪意に満ちた意図的なもの」とだけで理解はできない。日本のマスコミが持つ根本的な問題点、もっと大きく言えば日本社会の根底にある問題点にまで行きつくのだと思う。

 先日インタビューした日本人は、「拉致問題」の問題点を日本社会を深層的に分析し語ってくれた。大きな刺激を受けた時間だった。手間隙を惜しまずさまざまな人と会って記事を作っていく。その大切さ、面白さを改めて感じた。(徹)

[朝鮮新報 2003.2.11]